電気と技術の知られざる偉人たち(13)~電話網の拡大と国産化。明治の国策の時流に乗った沖牙太郎~

    沖牙太郎 年表
    1848年(嘉永元年) 安芸国沼田郡新庄村の農家に生まれる
    1874年(明治7年) 上京して上京して工部省電信寮製機所に入所/26歳前後
    1879年(明治12年) 電信局に所属のまま電信局の下請け工場を始める/31歳前後
    1881年(明治14年) 明工舎(現:沖電気工業)設立/33歳前後
    1885年(明治18年) ロンドン万国発明品博覧会に漆塗り線出品、銀牌受賞/37歳前後
    1889年(明治22年) 明工舎を沖電機工場と改称/41歳前後
    1898年(明治31年) WE社(米)から提携申込み、交渉不調に終わる/50歳前後
    1902年(明治35年) 長崎局に国産初の磁石式並列複式交換機を納入/54歳前後
    1906年(明治39年) 死去  /59歳

    青雲の志を抱いて上京

    沖牙太郎(おききばたろう)は、日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した実業家・技術者で、明工舎(現:沖電気工業)の創業者です。

    牙太郎は江戸末期に広島の農家の末っ子として生まれました。幼いころから負けず嫌いだっただけでなく、農業を嫌い技術職へのあこがれが強かったため、両親は牙太郎の希望に沿うかたちで植木職の吉崎家に養子に出しました。

    ところが牙太郎は植木職よりも従兄弟が従事する銀細工のほうに興味があり、従兄弟から銀細工を学んだ後は広島で武具、馬具などの金具づくりに従事しました。こういったエピソードからも、牙太郎がメカニカルなものづくりを好んでいたことがうかがえます。

    やがて牙太郎は数え年27歳のときに養家を飛び出し上京します。長州征伐の時には藩の武具所で金具作りを担当していた牙太郎でしたが、世の中が明治に変わり、武士階級が相手の武具・馬具製造に見切りを付け、青雲の大志を抱いて文明開化の東京を目指したのでした。

    電信寮製機所で異例の昇進、下請け工場開始

    牙太郎は上京後、 同郷の先輩で工部省電信寮修技校 (モールス信号電信機の操作を教授する学校)の初代校長 原田隆造の書生をしながら修技校に出入りするようになり、やがて同構内にあった製機所に雑役夫として本採用されました。自作の銀かんざしを添えた履歴書が功を奏したとも伝えられます。

    牙太郎が就職した工部省電信寮製機所は当時輸入品が多かった通信機器を修理するために設立された官営工場でした。白熱舎 (現東芝のルーツの一つ)や 三吉工場を創設した三吉正一、 田中製造所を設立した田中久重(二代目) など、 日本の電機業界のパイオニア達を輩出しており、ここでスイスの時計機械師ルイス・シェーファーに学んだ牙太郎はやがて紙製ダニエル電池と漆塗り線(エナメル線の前身に相当)を開発して表彰されています。

    製機所で技術を磨いた牙太郎は実力を伸ばして異例の昇進をしますが、その傍らで同僚たちの支援を受けて製機所職員の立場のまま製機所の下請け工場を始めました。工場といっても足踏み旋盤が2台しかない小さなもので、そこでブンゼン電池用のカーボンや電機材料、電鈴などをつくって電信局に納入し始めたのです。

    この頃、牙太郎ほか製機所の中堅技術者たちは、通信機器の国産化を目的とする所内研究グループ結成しており、下請け工場はそれを実現する第一歩でした。

    最大手の通信機器メーカーに

    牙太郎は1881年に同省を辞し、日本初の通信機器メーカー明工舎を設立しました。そして同年、国産第1号となる電話機を製造しました。

    創業当初は電話の加入者がほとんどおらず経済環境が非常に悪かったため朝から晩まで営業に走り回る日々でしたが、明工舎は軍需の追い風もあって何とか経営危機を乗り切り、1889年(明治22年)には社名を沖電機工場に改称しました。

    そんな中で政府から超大型の電話拡張計画が発表されます。国内通信網の整備という国家目標を掲げて1896年(明治29年)~1902年(明治35年)までの7カ年を期間とする「第一次長期計画」です。

    これはまだ電話網が未整備だったこの時代に、モールス信号の電信機よりも格段に利便性がよい「電話」という通信手段を国内に普及させるための大きな計画でした。

    決して楽な経営ではありませんでしたが牙太郎はこれを千載一遇のチャンスととらえ、思い切った事業拡大を行いました。15年間の技術的、資金的な蓄積をすべて注ぎ込んで、一大工場の建設に乗り出したのです。そこには、国家の神経網ともいうべき電話システムを外国資本に席巻されてはならないという使命感もありました。そしてそれは政府の思惑とも一致していました。

    やがて沖電気は架線や配線などの敷設工事は、東京ではほぼ独占的な地位を獲得し、最大手の通信機器メーカーとして成長しました。沖牙太郎は、1906年(明治39年)に亡くなりますが、その後も会社は国産電話交換機の開発に成功するなど発展を続け、現在では情報と通信が融合した新分野にも事業拡大を続けています。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 電気通信機ビジネスの発展と企業家活動―沖牙太郎と岩垂邦彦―(PDF) 電気ゆかりの地を訪ねてvo.12わが国最初の通信機器メーカー明工舎(PDF) 時代とOKI第1回 創業 沖牙太郎の挑戦 起業・独立ガイド沖牙太郎 ○○ ○○ など