最近、所属している倫理法人会という団体のご縁で、仙台市内のお寺の坐禅会に参加しています。
といいましても
「毎月一度の仙台駅東口の早朝清掃活動の後、そのお寺に伺い、住職さんの指導のもと30〜40分坐禅をして、お茶を頂いて帰る、」
という極めてゆるい感じのものなんですけどね。
こちらは一休さんのようになにかお題(公案)を解くわけでもなく、あの警策(きょうさく)という板みたいなのでバシーっと叩かれることもなく、ただただ「無」になって坐禅をするというスタイルです。
一口で「無」になって、とかんたんには書きましたが、実際のところ人間の頭は実にいろんなことを考えていて、これをやめるのにはなかなか苦労がいります。
中には、睡魔に襲われてそのまんま「無」になっちゃうお仲間もいるようですが、私の場合は頭のなかに余計な妄想や、「無」という漢字が一面に現れてしまったりして、しばらくのあいだはさっぱり「無」になれません。
がしかし、しばらくガマンして座り続けると、毎回ではありませんが、ある瞬間から「 …」という感じになる時があります。
おそらく、なんですけれどこれが「無」なんじゃないかな、と私は勝手に思っているんです(住職さんには怖くて聞けません、違ってたらと思うと・・・)
そして住職さんが鳴らす鈴の音で座禅のかっこうを解き、足の痛みが少しおさまってくると、まるで子供時代の目覚めのような実にすっきりとした感覚を味わうことができるときがあるんです。
この時の「 …」をむりやり言葉に直すと、
「ただ息を吸って吐いているだけ」。
お互い生きていれば調子のいい時やつらい時、充実している時、してない時、といろいろあると思いますが、そんな気持をすべて取り除いたベースの部分にはもしかすると
「息を吸っているだけで楽しい、気持ちがいい。」
そんな「無」がしっかりと私達を支えてくれているのかな?
とこの頃は感じています。