何によって記憶されたいか

    👈 前の記事へ

    次の記事へ👉

    皆さま遅ればせながら明けましておめでとうございます。
    いつの間にか2月になってしまいました。今年は久しぶりに寒〜い冬。
    当社のある仙台は氷点下1度の朝でも「あったかいなぁ」と感じるような昨今です。

    さて今回のタイトル
    「何によって記憶されたいか」
    は、2005年に95歳で亡くなったピーター・ドラッカーの著作からの引用です。

    ドラッカーは「現代経営工学の父」「マネジメントの発明者」と呼ばれる人で、最近では アニメ化、映画化された「もしドラ(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら)」でも有名ですね。

    ドラッカーが13歳のとき、学校で先生が「何によって記憶されたいかね」と教室のみんなに聞きました。

    ドラッカー本人も含め教室の誰も答えられないのを見た先生は、

    「今答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」

    と言ったそうです。 (ドラッカー『非営利組織の経営』より構成)

    私がこの話を知ったのは2年前、50歳をとっくに過ぎていました。

    父親から引継いだ「会社をなんとかすること」以外考えずに何十年と過ごしてきた私は、「何によって記憶されたいか」なんて考えたこともありませんでした。

    ですからこれを知った時「だいぶ人生を無駄に過ごしてわけだ」と後悔したことは言うまでもありません。

    しかし、こうも思ったんです。
    「ドラッカーが13歳だったのは100年近く前の事。平均寿命が大幅に伸びた現代、今から考えても遅くはないだろう。」

    それから事あるごとに「どう記憶されたいか」を考え続け、現在のところの答えは

    「良き商人である事、より未来に貢献できる仕事を創り、どこでも通用する社員を育成し、少しでも高い給料を払えるよう(もちろん自分にも)になる事に努力し続け、実現した人、として記憶されたい。」です。

    真面目すぎて自分でもちょっと恥ずかしいですね。

    皆さんはどうですか?

    もちろん、「どう記憶されたいか」なんてあくまでも勝手な願望ですので、結果そのようになれない可能性の方が高いかもしれません。

    いくら努力を続けても、自身の健康状態や周りを取り巻く環境の変化、運の善し悪しなど、人生には自分で決められないことはたくさんあります。

    でもきっと、仮にそうならなくても、「そう思い、そう生きた」ことに大きな価値があるんじゃないかな、とそんな風に思っています。

    今日も一日いろんな出会いがあるでしょう。

    誰かと道ですれ違った後、電車を降りた後、初めて会った後、仕事をリタイアした後、人生とさよならした後。

    あなたは「どう記憶されたい」ですか?

    ※2/6 一部内容を編集しました
    「おぼえられたいか」→「記憶されたいか」に変更

    (ドラッカー『非営利組織の経営』より構成)→(ドラッカー『非営利組織の経営』より引用・編集しました)に変更

    「今日も一日いろんな出会いがあるでしょう。」文中に追加