ミカド電装商事は今の社名になってからもうすぐ60周年を迎えます。今回からの新シリーズでは昭和48年に入社して以来50年近く業務に携わり、長い間当社の歴史を見てきた阿部義相談役にご登場いただき、ミカド電装の歩みやご自身の思い出などを語っていただきます。
高校を卒業して入社したのはグループ会社の東京工場でした
編集部 新卒で入社されたのではないのですか?
阿部相談役 はい。私が高校を卒業して入社したのは当社と同じ創業者(沢田万三)を持つミカド電機工業(仙台市若林区)の東京工場です。就職したのは東京オリンピックの年で、昭和39年(1964年)のことでした。当時は新幹線もなかったので夜行列車に乗って移動しました。
今はもうなくなりましたが、当時はミカド電機工業が同社の別部門として東京の大田区西六郷に立ち上げた工場があり、そこで直流電源装置(48ボルトの通信用)を自社製造して、電力会社に直接納品していたんです。大きな会社に直接納めるなんてすごいな、と、思っていました。
東京工場ではほかにも信号会社の電源装置や電気機器メーカーの電源装置などを委託製造していましたし、日本電池(現:GSユアサ)の自動車用クイックチャージャー(ガソリンスタンドなどによく置いてあります)などもつくっていましたよ。
工場は50人ぐらい人がいて総務も経理もある、そこそこの規模でした。製造は工作部が担当していましたが、私が所属していたのは技術部で、そこで製品の性能チェックなど、できたものを検査したり試験したりする仕事に携わっていました。
ですが東京工場を閉めることになったため、私は都内で別な会社に転職したんです。
転職先の電源部門がなくなり電子ジャーの担当に
編集部 以前、炊飯器を担当していたと伺ったことがあるのですが?
阿部相談役 最初からそうだったわけではなく、始めは電源装置の部門だったんです。転職先も電気機器の製造会社でしたが、航空機のILS(計器着陸装置)用の電源機器製作も手掛けており、私はそこの配属でした。
ですがその後すぐに電源部門がなくなってしまったんです。そこの会社は電気製品の委託製造もおこなっている会社だったので、部門がなくなってからは炊飯器の開発部に移り、東芝の電子ジャー炊飯器の品質管理の業務に携わりました。北海道など寒い所に持って行ったり、暑い所に持って行ったりして、7年ぐらいいたのかな。
電源装置に関わりたくてミカド電装商事に入社
編集部 なぜ転職されたんですか?
阿部相談役 うーん・・・なんだか東京が嫌になって来ちゃったんだね(笑)実はミカド電機の東京工場で上司だった方が、仙台のミカド電機に移っていたんですよ。
編集部 戻っていらしたんですね。
阿部相談役 いや、その人は島根の人なので仙台に”戻った”わけではないんですけどね(現在は故郷の島根に”戻って”いますが)。それで、その人に連絡して「仙台で働きたい」とお願いしたんです。仙台ではそのときすでにミカド電装が日本電池の代理店として同社の直流電源装置を取り扱っていました。自分は電源装置の出身ですし、そちらのほうが馴染みもあるので、元上司にはミカド電装商事への入社を希望しました。そして昭和48年にこの会社に入ったのが今の自分のスタート地点ということになります。
私が入社したときは、創業者(沢田万三)がまだ社長を務めていたときで、今の会長(沢田元一郎)のお父さん(沢田澄男)が副社長でした。
その1年後に副社長が社長になり、やがて今の会長が社長になり、現在は4人目の社長(沢田秀二)ということになりますね。
編集部 4人の社長の時代を経験されているなんてすごいですね。次回は入社してからのお話を伺いたいと思います。今日はありがとうございました。
(つづく)