「ミカド電装マイヒストリー」のシリーズです。今回は沢田元一郎会長の登場です。沢田会長はこの後も登場いただく予定ですが、まず初回は当社のIT化についてお話を聞かせていただきました。
知りたい情報がすぐにわかる環境にしたかった
編集部 このシリーズではどの方にお話を伺っても「当社のIT化は沢田会長(当時は社長)が推進してきた」とおっしゃるので、そこから先にお話を伺いたいと思います。まず入社はいつになりますか?
沢田元一郎会長 大学を卒業して3年後です。僕が大学生の頃は当社の業績があまりよくなかったので当時社長だった父からは「お前は(長男だけど)普通の会社に入って普通に就職しなさい」と言われていましたが、その後業績が上向きに変わったので、卒業後はメーカー(GSユアサ 当時は日本電池)で少し勉強して3年後に入社することになりました。いわゆる修行ですね。
編集部 IT化はいつ頃から着手されたのですか?
沢田元一郎会長 1989年です。
編集部 なぜやろうと思われたのですか?
沢田元一郎会長 誰でもそうだと思うんですけど、社会に出て一番最初に働いた会社というのが仕事を進めるうえでのベースになると思うんですよね。特に環境や仕組みの部分では。
自分の場合はスタートがGSユアサの東京支社だったので仕事をする環境には恵まれていたと思います。それで3年の期限を終えて仙台に戻り当社に入社した時に、やはりあの環境に近づけたいな、というのが真っ先に感じたことでした。
編集部 その当時は今とは随分違うんですね?
沢田元一郎会長 はい。自分が入社した時には、受注伝票などもA5版のバインダーに順番に挟んで綴じてあるだけで、売り上げるとそこから必要な伝票を抜き出して色々書いて総務に持っていくような形だったんです(しかも電卓で計算して手書きです)。
それで何が困るかというと、売り上げ見込みがいつまで経ってもわからないということなんです。決算も2か月ぐらいかかりますし、今期いくら売り上げがあっていくら粗利があるのか知りたくてもすぐにわからないんですよ。だって紙で重ねてあるだけだし、よく見ると必要事項が書いていない伝票も一杯あって(苦笑)
卒業後すぐに務めた最初の会社は近代的な環境でした
編集部 会長が最初に働いた環境とその頃の当社は、やはりかなり違いましたか?
沢田元一郎会長 GSユアサさんは支社ベースでシステム35というIBMのオフコン(オフィスコンピュータ:事務処理に特化した当時の小型コンピューターでパソコンが出る前の旧世代機)が入っていて、書類を送るためのシューターもあったんです。
シューターと言うのはカプセルのような筒に入った書類を指定した階に気送管を通じてエアで送る装置で、上の階にももちろん届きます。今考えるとかなりアナログなんですがインターネットもLANもなく、そもそもコンピューターをネットワークでつなぐ仕組みがなかった当時としては最新だったんです。
編集部 では働ている方もバリバリですね。
沢田元一郎会長 いや、そういう方ばかりでもなかったかな。その頃はどこの会社も同じだったと思いますが、僕のいた営業部では50人いたけどコンピューターは1台しかなくて、何に使うのかわからない人たちのほうがずっと多かった(笑)。だけど僕のいた三課の課長さんが別名パソコン課長と呼ばれるぐらい詳しい方だったので、使い方をその人に教わることができたんですね。
そんなところから電卓で計算したあとそろばんで確かめ算をやるような環境に来たわけです。図面もですね、保管というよりは”詰め込んでいる”に近い状態で同じ図面が何枚もあったりね、ファイリングという部分でも課題を感じました。
記念すべきIT化の第一号はサンヨーのワープロ機
編集部 IT化はどの辺から着手されたのですか?
沢田元一郎会長 まずワープロを買おうと思いました。サンヨーのサンワードという白黒のブラウン管があるやつを2台買ってそれでみんなに慣れてもらおうと思いました。
編集部 当時としては初めての方にはハードルが高ったのでは?
沢田元一郎会長 いや、便利なことがわかって必要性を感じたら、自然に覚えていくものです。それに当時のワープロ専用機はキーやボタンに日本語で機能が書いてあったので、キーボードが打てるようになればなんとか大丈夫。それと皆さんには、前に使ったデータを流用して上書きすれば新規のデータがすぐ作れるので、手書きよりもずっと楽だよ、とお話をしました。
そして見積書とかお客様への報告書をそれで作ってもらうようにしました。工務部の皆さんは元々技術的な感覚がある人達なので、施工の報告書などは若い人たちがそれを使ってつくるようになりました。
編集部 今はとても環境が整っている当社ですが、最初の頃はとてもアナログだったんですね。沢田会長にはこのあとも引き続きお話を伺いたいと思います。本日はありがとうございました。