「ミカド電装マイヒストリー」のシリーズです。今回は阿部相談役に再登場していただき、入社当時の思い出や昔の営業スタイルについてお話をいただきました。
技術職から営業職に転身して当初は細々とやっていました
ミカド電装商事に入社したのは先代の社長のときですからもう40数年になります。仙台出身ですがその前は東京で働いていました。当社の創業者が設立した別会社に東京工場があったので、そこの技術担当として何年か勤めたあと、また仙台に戻って来て元の会社ではなくこちらのほうに入りました。
東京の工場では直流電源装置に携わっていましたが、蓄電池や電源装置というのは昔からあまり変化のない商品で大きな技術革新がないんです。そこで今度は営業をやりたいと思ってミカド電装商事に入りました。
入社当時はミカド電装商事という名前の通リ~自動車電池、電装品、蓄電池設備を扱っていたのですが、その後日本電池(ユアサ電池と経営統合GSユアサとなる)の代理店となって現在同様に直流電源装置や蓄電池を扱うようになりました。
といっても産業分野で直流電源装置は今のように普及していなかったですし、当時はメーカーが直接お客様に納品することが多かったので、その頃の我々は電力会社向けに記録計、電気計測器、電気工事会社向けに自家発電設備なども販売していました。
電気計測器は配電系統の高調波測定に使用されました。電力会社から送電されてくる電気には殆ど高調波は含まれておりませんが、高調波があると照明のチラつき、電気機器の異音等の原因になります。 当時は今とちがって社員の数も少なく、現地据付工事も営業の範疇となり作業員として奮闘しました。営業は私と先輩と部長の3人だけで細々とやっていましたね(笑)
配った名刺の数がモノをいう営業スタイルでした
その頃は営業と言っても研修なんかないですし、お客様から「これがほしい、あれがほしい」と言われれば「わかりました」と言って伺う御用聞きのような営業スタイルです。
メールはまだありませんし電話もそれほど使わず、ひたすら直接ご訪問してお客様を回っていました。
今と違ってお客様のオフィスの中にもどんどん入れたので、担当者さんが不在でも必ず机の上に名刺を置いてきました。お客様って不思議なものでそういった名刺を全部保存しているんですよ。
で、次に伺ったときに「オマエ、この前来たな」とか「最近、全然顔を見せないな」とかそういうお話をされながら少しずつ仲良くなっていくんですけれど、先方にとっては我々がどれだけ足を運んでいるかが結構重要なんですね。
こういっては何ですが電源装置や蓄電池というのはメーカーによって極端に大きな違いがある商品ではないんです。もちろん信頼性や寿命等で差はあるのですが、それよりも人間関係が重視される時代だったと思います。
だから配った名刺の枚数がそのまま売上につながります。当時は今のように働き方改革による残業の制限などもありませんし、とにかくいっぱい残業して(笑)いっぱい働きました。アナログではありますが、行動量がそのまま実績に直結した時代だったと思います。
編集部より 阿部相談役は近々ご勇退される予定です。過去記事や社史作成のインタビューでいつも貴重なお話を聞かせていただきました。当社のデジタル化・IT化など今でいうDXの流れにも決して臆することなく常に新しい仕組みや手法に積極的に取り組んでくださった阿部相談役、長い間お疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。