電気と技術の知られざる偉人たち(01)~浜松の「やらまいか」精神でTVを発明した高柳健次郎~

    今回から電気やエネルギー技術の分野で功績を残しながら、世間にはあまり知られていない隠れた偉人たちをご紹介したいと思います。といいつつ、第1回はもしかしてわりとメジャー?な高柳健次郎博士からのスタートです。

    浜松は起業家精神にあふれる地域

    浜松地域(遠州地方)からはスズキ、ホンダ、ヤマハ、カワイ、トヨタといったグ
    ローバルな自動車メーカーやオートバイメーカーが5社も出現しています。また、楽器
    産業でもヤマハ、カワイ、シンセサイザーのローランドは世界に冠たる企業です。

    浜松地域は昔から綿花の一大産地であり、それに伴う工業(紡績、織機等)が時代と共に発展していきましたが、地理的には徳川の江戸と豊臣の尾張の間に位置し、権力者の庇護を受けたことがないので、独立独歩の気風が強いそうです。

    浜松には「やらまいか」という方言があります。元々は「〇〇をやりませんか?(やりましょう)」と、何かに人を誘う言葉でしたが、持ち前のベンチャー気質を背景に最近では「やっちゃえ、やっちゃえ」のニュアンスに近い意味合いに変化し、何でもやってみる起業家風土を表す言葉として使われています。

    そんな浜松の技術力を後押しした存在が旧制浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)です。ここからは多くの優秀な技術者が出ており、その筆頭がテレビの父と言われている高柳健次郎です。

    テレビジョンの実現を決意する

    Takayanagi_Kenjiro_1953
    高柳健次郎博士(1953年)(画像:Wikipedia

    高柳健次郎は1899年(明治32年)浜松に生まれました。運動が苦手だったと伝えられていますが、機械の構造などには高い関心を示す生徒だったそうです。

    高柳は教師を目指して静岡師範学校に入りそこで真空管の働きについて学び電気工学に興味を持ちました。その後、東京高等工業学校(東京工大の前身)に進学し、中村幸之助という恩師から「日本の将来を担う青年は、十年、二十年先に日本になくてはならない技術を見つけ、それに専念することが大切である」という訓話を受けて、フランスの漫画から着想を得た「テレビジョン」のアイデア(映像の伝送)を実現させてみたいと強く思い始めます。

    1924年(大正13年)静岡大学工学部の前身である浜松高等工業学校が開設され、助教授に採用された高柳は本格的に「テレビジョン」の研究を開始しました。欧米の研究者が機械式テレビジョンの開発を目指していたのを横目に、彼は複雑な画像に対応するには、ブラウン管を利用した電子式であるべきだという発想で、開発を進めました。

    そして、二年後の1926年(大正15年)の12月25日に「イ」の字を鮮明に映し出した世界最初のブラウン管式テレビ受像機の実験に成功したのです。この日、大正天皇が崩御されて昭和元年となったため、まさに大正最後、昭和最初の大発明というべきものでした。

    戦争がなければ世界に名前を残していたかも

    昭和12年に現在の放送基準に匹敵する送受像方式を開発し実用化にメドをつけた高柳は、昭和15年のアジア初の東京オリンピックの中継という大事業の準備に専念するため、その研究員の多くを引き連れNHKに移りました。

    しかし昭和15年の東京オリンピックは日本の国際連盟脱退とともに幻に終わり、その後太平洋戦争が勃発。高柳のテレビの研究は戦争で中断を余儀なくされただけでなく、終戦後もGHQによって規制されました。

    GHQは「テレビの研究は、電波兵器のような軍事用の研究とかかわりが強く好ましくないため、無線・有線に関わらず全面禁止とする」と発令しました。高柳本人に対しても「(軍事関係の従事した者は)通信や放送などの公共事業に携わってはいけない」と命令されて日本ビクターに転籍することになりました。

    高柳はその後、NHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させましたが、ビクターの社員でありながらシャープの窮地を救ったエピソードは、当サイトでも過去に取り上げています。

    (過去記事)テレビ~苦境を救ったライバル会社の紹介状~

    機械式テレビの研究が主流だった時代に高柳は早くから「機械式テレビは猿の子と同じで、生まれてすぐに動き始めるが、知能の形成は途中で止まってしまう。しかし、電子式は人間の子と同じで、歩き出すには時間がかかるが、大きく成長する」と確信していました。

    日本ではテレビの父と呼ばれる高柳健次郎の名前は「テレビの開発者」として海外のサイトでも紹介がありますが扱いは小さなものです。もし戦争による中断やGHQによる規制がなければ、世界に先駆けて新しい技術を大いに発信して世界に知れ渡る研究者になっていたかもしれませんね。

    高柳は1950年に取締役技術部長へ就任後、副社長と技術最高顧問を歴任して1990年に亡くなりました。2ヘッド式のビデオテープレコーダーの開発にも大きく貢献し、浜松の「やらまいか」精神を体現した一生でした。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 浜松企業の競争力創成(PDF) 旧制浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部) 浜松やらまいか精神(高柳健次郎) 第2回 白黒テレビ放送開始 など