【ヒストリー】16.テレビ~苦境を救ったライバル会社の紹介状~

    家電に関するヒストリーを、
    シリーズでお届けしています
    今月は「テレビ」です。

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    国産第一号の家庭用テレビ受像機は、
    1953年(昭和28年)に
    シャープ(当時は早川電気)から発売されました。
    NHKが日本で初めてテレビ放送を開始した年です。
    ↓↓↓
    https://homepage-town.jp/mikado-d/reference/201506.html#history

    戦前の日本では映像送信技術の研究が早くから進んでおり、
    世界で初めてブラウン管に画像を映し出すことに成功したのは、
    テレビの父と呼ばれている
    高柳健次郎氏(当時浜松高等工業学校助教授)です。

    しかし戦争で研究が中断、
    戦後もGHQから長い間、開発を禁じられました。

    高柳氏自身も公的機関に在籍したままでは
    研究に関わることができなくなり、
    続行のため日本ビクターの社員となりました。

    一方、小さなラジオメーカーだったシャープは
    早い段階でテレビの可能性に着目し、
    浜松高等工業学校から高柳氏の愛弟子を採用するなどして、
    量産化のための開発を続けていました。

    試行錯誤の末、
    実用機を完成させたシャープに予期せぬ壁が・・・。

    それは電気回路の技術特許が
    米国RCA社に押さえられていることでした。

    巨大企業のRCAが敗戦国の小さなメーカーに
    特許の使用を認めてくれるのでしょうか?

    ここで大きく貢献したのが、
    シャープ早川社長と旧知の間柄だった、
    「テレビの父」と呼ばれる
    ビクターの高柳氏からの紹介状でした。

    早川社長のシャープと高柳氏のビクターは、
    テレビ開発でしのぎを削るライバル同士でした。

    しかし高柳氏はシャープのために、
    親交のあったRCA社にためわらずに紹介状を書き、
    これが功を奏して特許の使用許可が下りました。

    シャープはすぐさま家庭用テレビの量産体制に入り
    1953年1月に初の国産テレビの販売を開始しました。

    国産テレビ1号機の背景には、
    戦前から日本のテレビ開発を夢見てきた二人の、
    組織を超えた強い思いがあったのです。