1859年(安政6年)2月7日(旧暦1月5日)佐賀県小城町で誕生
1873年(明治6年)上京/14歳前後
1874年(明治7年)工部省工部寮小学校に入学/15歳前後
1878年(明治11年)3月25日 日本初のアーク灯点灯実験に助手参加/19歳前後
1888年(明治22年)アメリカコーネル大学で電気工学を専攻・学位取得/29歳前後
1891年(明治24年)東京帝国大学教授に就任/32歳前後
1894年(明治27年)浅草中央発電所の高圧単相交流発電機を設計/35歳前後
1895年(明治28年)同機を設置/36歳前後
1899年(明治32年)工学博士となる/40歳前後
1911年(明治44年)電気学会会長(第3代)を務める/52歳前後
1914年(大正3年)2月16日死去 墓所は東京都豊島区染井霊園/55歳前後
「子(ね)の日」に生まれた中野初子(はつね)
明治時代の初期に工部省が創設した工部大学校という技術者養成機関がありました。
東京大学工学部の前身のひとつであるこの学校は外国人指導者を招聘し、直接教えを受けた学生達の中からは日本の電気工学の礎となる人材が多く輩出されました。
その一人が第3期生の中野初子(はつね)です。初子という名前は生まれた日(旧暦の1月5日)がその年最初の「子(ね)の日」だったことから、最初は初子郎(はつねろう)と名付けられそれが後に初子(はつね)になったようです。
中野初子ら第3期生が在籍していた当時の工部大学校ではイギリス人物理学者のウィリアム・エドワード・エアトンが学生達を指導していました。
ある日、そのエアトン教授のもとに伊藤博文工部卿(工部省長官)から重大なミッションが告げられす。それは中央電信局の開局記念祝賀会で日本初のアーク灯を灯すこと。
1878年(明治11年)はエジソンが白熱灯を発明する前の年で、世界的に見ても電灯はおろか電力会社もまだない時代です。そんな時代に伊藤博文は外国人も多数招くそのパーティで燦然とアーク灯を灯し、技術力を内外にアピールしたかったのでしょう。
(たとえ一瞬でも)日本で初めて電気照明が灯った日
そこでエアトンは3期生の中野初子、藤岡市助、浅野応輔などの学生達に手伝わせてグローブ電池と呼ばれる初期の一次電池を50個もつなげ、デュボスク式アーク灯を日本で初めて点灯させました。
電灯を一度も見たことがない参列者はそのまぶしすぎる光に感嘆し会場は大いに沸いたそうですが、残念ながら実際は「パッと明るくなって万雷の拍手が鳴り響いた次の瞬間、スーと消えた」(出典:「去華就実」と郷土の先覚者たち)というのが真相のようです。
実はデュボスク式アーク灯というのは私たちが想像する「あかり」とはかけ離れており、どちらかと言えば強い閃光を放つ溶接装置に近い照明です。
元々調整が難しい照明であることに加え、グローブ電池は電圧が降下しやすく、今考えればすぐに消えたのは当然だったかもしれません。どうやら日本初のアーク灯点灯は、祝賀会の会場を明るく照らし続ける華々しいものではなかったようです。
会場は工部大学校の講堂でしたが、そのときにある書記官が、”アーク灯の置いてある2階へ駆け上がって「点灯を続けよ」と叫んだがついにだめだった”という記録もあるようなので、アーク灯の設置場所に関しても一部の記事にある天井ではなく講堂の2階部分だったと思われます。
しかし結果的には短時間でしたが、これは日本で初めて電灯(アーク灯)が灯った記念すべきできごとであり、この日3月25日は1927年(昭和2年)に日本電気協会によって電気事業の発祥を記念する「電気記念日」に制定されました。
東京電燈浅草中央発電所の大容量発電機を設計
このとき助手として参加した中野初子、藤岡市助、浅野応輔は、やがてそれぞれが日本の電気工学を担う存在になっていきます。
そのため3名は電気工学を切り拓いた「三羽ガラス」と呼ばれることもありますが、その後産業分野に進出して新規事業に関わっていく藤岡、浅野両氏と異なり、中野初子は終生大学で後進の育成に務めたため、実績は地味です。
初子はその後、アメリカのコーネル大学に留学して学位を取得し、帰国後は東京帝国大学教授に就任しました。そして3年後に東京電燈(後の東京電力)や石川島造船所(現:IHI)電気工場顧問として、新設された東京電燈浅草中央発電所の大容量発電機を設計しました。
この発電機は2,000ボルト、100ヘルツ、200キロワットの単相交流発電機で東京電燈に4台納入されました。
米国でさえ100kW以上の発電機を作るのは難しいといわれていた時代に、ここまでのハイスペックな発電機を国産で作り上げて最高圧送電に成功したことは特筆に値します。
けれど、故障が多くなかなか安定しなかったことから、東京電燈では最終的にドイツ・アルゲマイネ社の発電機を2台導入して併用することになりました。そのドイツ製発電機が50Hzだったため、東日本には50Hzの発電機が普及していったのは有名なお話ですよね。
当時は複数の電力会社が民間の新興ベンチャー企業として熾烈な覇権争いを行っており、大阪電灯が採用したのは米国製の60Hz発電機でした。これを機に西日本ではそちらが普及していきますが、この周波数の違いが後に大きな問題になることなど、当時の人達には想像できないぐらい、電気はまだまだローカルでマイナーな存在でした。
電気工学者を多数輩出する佐賀県
女性のような名前であることから、藤岡市助と二人で出張した青森の宿泊先で、宿帳を見た警察官から駆け落ちと間違われたり、家主(本人)の彼氏と勘違いされたり、笑える話もあった中野初子ですが、学生達とは豪放な接し方をしていて学生達もよく自宅に訪れていたようです。留学時には米国の学生と激しい議論をしていて英語で話すのがもどかしくなり、つい「何だ、べらんめぇ、そんなことがあるもんか!」と叫んでしまったというエピソードも。
そんな中野は電気学会の会長(第3代)を務めたあと56歳でなくなりました。酒豪でもあったため、教え子のひとりは「健康を害されたのはお酒のせいでは?」と回想しています。
(出典:諸先生とおもかげ(第一集)東大電気工学科と生い立ち)
編集部が中野初子を知ったのは、地域の偉人として佐賀県や小城市が発信している複数のサイトが目に留まったことがきっかけでした。
佐賀県はこの時代に電気工学に功績のある人材を多数輩出している県であり、電気学会工部省の 2 代目電信局長石井忠亮、電信機製造の田中久重(東芝の創設者)、逓信省の通信のリーダー志田林三郎も佐賀県出身です。
佐賀(肥前)では自前の洋式海軍を企図する藩主鍋島直正の命で現在の理化学研究所に相当する「精錬方」と呼ばれる研究機関がつくられ、藩校でも家格にとらわれず物理や化学を積極的に教えるなど、広く人材を育てて西洋技術を吸収するための下地ができていました。
明治の先駆者の足跡をたどると、先行する海外の技術を追いかけて人材育成にお金を注いでいた当時の治世者達の教育への熱意をうかがうことができて大変興味深いです。中野初子の生涯は小城市の教育委員会が作成した以下の動画で大変わかりやすく解説されていますので、そちらも合わせてぜひご覧ください。
(ミカドONLINE編集部)
参考/参照記事 小城維新探検隊「♯11 中野初子(なかのはつね)」(YouTube) 「去華就実」と郷土の先覚者たち わが国電灯初点灯を指導したエアトン教授 奇天烈エレキテル その1. 諸先生とおもかげ(第一集)東大電気工学科と生い立ち 続々「日本科学技術の旅」 など