トランジスタの歴史③~性格の悪い上司が繁栄させたシリコンバレー~

    「8人の反逆者(裏切者)」と呼ばれるフェアチャイルド8人衆(画像:SFGATEより)

    全米から優秀な人材を集めて西海岸のマウンテンビューで半導体会社を創業

    12/2/1965William B. Shockley, Nobel Laureate in physics
    ウィリアム・ショックレー(画像:Wikipediaより)

    ウィリアム・ショックレー(米)は、天才的な物理学者でしたが、個性的な性格の持ち主でもありました。ひとことで言えば、疑い深く支配的で偏執的。そのため、周囲と軋轢が生じて衝突が絶えず、研究開発のリーダーでありながら、マネージメント能力を疑問視されていました。往年の写真を拝見すると紳士的なおじさんに見えますが、実際には”個性的”なエピソードが数多く残っているようです。もしかしたらパワハラの元祖??

    ベル研究所でトランジスタを発明したショックレーは、やがて待遇を不服として退職し、友人の資金援助で設立されたショックレー半導体研究所の所長になりました。そして、ベル研究所からかつての同僚たちを引き抜こうとしましたが、失敗に終わりました。彼らはショックレーの人柄を知っていたため、誰も一緒に働きたいとは思わなかったのです。

    そこでショックレーは、全米中から優秀な人材をスカウトしました。トランジスタ開発の第一人者としてショックレーの名声は知れ渡っており、誰も彼の性格や支配的な管理スタイルを知らないため、リクルートは好調ですぐに25人が集まりました。

    ショックレー半導体研究所は「研究所」という名称ながら、実際は世界初めてつくられた半導体の開発・製造会社でした。

    援助の申し出をした学友のベックマンはショックレー半導体研究所を彼自身の会社(ベックマン・インスツルメンツ)の子会社にしており、創設場所も本社があるロサンゼルス近郊を勧めましたが、ショックレーは病気の母親が住んでいる故郷の西海岸での創業を希望し、「スタンフォード大学が近く人材募集に有利」という理由で友人を納得させ、研究所は1956年に出身地のパロアルトに隣接するマウンテンビューに設置されました。

    経営方針が合わずに8名が一斉に離脱

    ショックレー半導体研究所
    1960年の研究所(Photo: Chemical Heritage Foundation Collections)

    トランジスタは増幅やスイッチの機能を持つ単体の小さな素子ですが、条件によって導体にも絶縁体にもなる半導体と呼ばれる物質が原料です。当時はゲルマニウムが半導体として使われていましたが、ショックレーは論理的にシリコンのほうが優れていると確信しており、研究所は成形しにくいというシリコンの難点をクリアして、シリコン製の半導体を工業化するためにつくられました。

    ところがショックレーは1年も経たないうちに、シリコントランジスタの開発を打ち切り、4層ダイオードの開発に転換することを決めたのです。

    すでにこの頃、開発メンバー達は、ショックレーのリーダーとしての在り方に不満を抱き、お互いの仲が険悪となっていたため、決定に反発した8名のスタッフがそれを機に一斉退職しました。一説では所長の更迭を画策するも、所長がノーベル賞を取ってしまったことで、それができなくなった、とも言われています。

    フェアチャイルド社の設立、そして

    1ドル紙幣の署名(画像:SFGATEより)

    8名は、メンバーの一部が現状を相談したカメラ会社のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツの支援を受け、最終的に、同社の半導体部門としてフェアチャイルドセミコンダクターという会社を立ち上げることになりました。

    メンバーは、ジョーン・ホーニ、ジュリウス・ブランク、ヴィクター・グリニッチ、ユージーン・クライナー、ゴードン・ムーア、シェルドン・ロバーツ、ジェイ・ラスト、ロバート・ノイスです(※ページ冒頭写真)。8名は1ドル紙幣に署名し、未来を誓い合いました(1957)

    この会社がやがて大成功をおさめ、1960年には世界初のシリコン集積回路の発売を成し遂げて、60年代後半には3万人以上もの社員を抱える大会社へと成長を遂げました。彼ら8人を決して許さないまま実績を残せずに清算されたショックレー研究所はおろか、親会社までも大きくしのぐ巨大な組織となりました。

    しかし大企業になってしまったゆえの体質の変化や人事への方針の違いなどで、今度はそのフェアチャイルドからロバート・ノイスとゴードン・ムーアが飛び出し、インテル社を設立して大躍進。また、ユージーン・クライナーはその後、仲間とベンチャーキャピタル会社を設立してこちらも大成功しました。

    マネージメント能力に欠けたショックレーでしたが

    ショックレー研究の跡地(画像:Wikipedia英語版より)

    こうしてトランジスタの父 ウィリアム・ショックレーの創業地には半導体事業者や関連業種が次々と展開されていき、アプリコット果樹園が広がっていたのどかな田園地区は、シリコン産業が集結する一大集積地として繁栄し、シリコンバレーと呼ばれるようになりました。

    ショックレーはその後、優生思想(優れたものだけが遺伝子を残したほうがいいという考え)に大きく傾き、人種差別と受け取られかねない発言を繰り返したため、世間の批判を浴びました。

    ビジネス(ショックレー半導体研究所)も失敗し、人々から忘れられ、ノーベル賞の素晴らしい実績と名誉を生かせない残念な結果になってしまいましたが、彼の研究所を飛び出した人材のその後を活躍を考えると、マネージメント能力はなくても、人を見る目は確実にあったと思われます。

    ショックレーがマウンテンビューに研究所をつくらなければ、今のシリコンバレーはなかったかもしれませんし、ショックレーが人心掌握術に長けていたら、研究スタッフの離反はなく、集積回路(フェアチャイルド社)もマイクロプロセッサー(インテル社)もどうなっていたかわかりません。

    そう思うと、歴史は何が幸いするかわからないものですね。ちなみにフェアチャイルドセミコンダクター社は、その後も多くの人材を輩出し続けました。スピンアウトの風土も、もしかしてショックレーのお陰なのかもしれませんね。