ミカド電装マイヒストリー 阿部相談役 ②地道に築いたお客様との信頼関係~

    みかドン ミカどんミカド電装商事は今の社名になってからもうすぐ60周年を迎えます。昭和48年に入社して以来50年近く業務に携わり、長い間当社の歴史を見てきた阿部義勝相談役に伺う「マイヒストリー」2回目です。今回は二度の転職を経て当社に入社されてからのお話です。

    ミカド電装商事に入社して営業部門に配属されました

    編集部 入社してすぐに営業部門に配属されたとのことですが・・・?

    阿部相談役 営業と言ってもそのときは人数が少ないので、今では工務部の担当になっているような仕事も全部やるんです。受注をいただいて、据え付けも担当して全部やる、と。
    もう、すべてですよね、スタートから、終わりまですべて。

    編集部 ずっと技術畑を歩いて来られたのでここで営業職というのも意外に感じたのですが?

    阿部相談役 技術面はここから何かが劇的に変わるということがなさそうに感じたんです。なので、これからは販売に携わってみたいと思いました。
    と言っても、当社ではそのとき、3~4人ぐらいしか営業担当がいませんでしたけどね。

    編集部 最初は大変だったのでは?

    阿部相談役 確かに最初はどこに何をお勧めしたらよいのか、全くの手探りでした。
    ですが、電力会社さんや既存の企業さんなどの担当にしていただいて、色々まわったりしていると、段々わかってくるんですよね。

    編集部 たとえば?

    阿部相談役 どんな組織でも、その分野にはキーマンがいる、ということです。

    重要なのはキーマンへのアプローチ

    編集部 それは通ってるうちにわかるものですか?

    阿部相談役 わかりますよ。なぜなら直接の担当者さんとやりとりをしていても、必ず横から口出し?をしてくる方がいらっしゃるからです(笑)担当者さんがその分野に明るくない新任の方ですと、なおさらですね。
    そういった方のスルドイ突っ込みにひとつひとつ答えているうちに、「こいつは知っていそうなやつだ」という印象になるわけです。

    前回お話をしたように、私の最初の就職先は、当社のグループ会社であるミカド電機工業株式会社の東京工場で、そこで電力会社さんに納める直流電源装置の試験・調整に携わっていました。次の仕事でも最初は電源装置の担当でした。ある程度の知識があったため信用してくださったようです。

    そうなると、「うちではその装置をいま何台持っていて、今年は何台が更新予定だから、それはお前んとこに頼む」という流れにその場でなっちゃうんです。
    いまでは考えられない話ですが、(正規の発注前なのに)詳しい仕様までその場でトントン拍子に決まってしまい、あとから伝票が回って来るということもありました。

    ミカド電装商事のお客様に大会社が多い理由(わけ)

    阿部相談役 いまは各県に支店があるような会社さんの発注は、本店や本社が取りまとめて一括で発注されることが多いのですが、昔は支店ごとに決済権があったので、われわれが注文をもらうためには、東北各地の支店に何度も直接赴いて、まずは社名を覚えてもらい、次に名前を覚えてもらい、最終的に雑談や世間話ができるようになって、そこで初めて仕事の話ができるようになったものです。

    編集部 当社に入社してから、相談役が初めていただいた受注はなんだったのですか?

    阿部相談役 それは新潟県の通信関係の設備で24ボルトの電源装置です。

    編集部 新潟県ですか!

    阿部相談役 そうです。これも前回話した通り、当社のグループ会社であるミカド電機工業株式会社が当時の東京工場で製造していた直流電源装置は、自社ブランド製品として大会社などに直接納入されていたんです。新潟県は特にそれが多くて、その時代にもまだあちこにに残っていたんですね。(東京工場はのちに閉鎖)

    その後の経緯で、ミカド電機工業株式会社さんは車載の電装品、ミカド電装商事(当社)は日本電池(現 GSユアサ)の代理店として直流電源装置などのバックアップ電源を扱うように業務が分かれましたが、そうなるとかつてミカド電機工業株式会社さんが納入した機器の後継を当社が担当するようになるわけです。

    私は前々職がまさにミカド電機工業株式会社さんの直流電源部門(東京工場)だったため、新潟からそういったオーダーが入ると「じゃ、オマエ、詳しいだろうから行ってこい」という流れになったんですね。

    編集部 それはある意味財産ですね。

    阿部相談役 確かに幸運だったと思います。大会社には通常、メーカーの出先機関がダイレクトに入り込んでいるものですが、代理店でありながらも大きな会社と直接取引できるのは、その当時の遺産を上手に引き継いでいるからなんですよね。

    昭和の営業は人情と融通と阿吽の呼吸

    笑顔で当時の思い出を語る阿部相談役

    編集部 なるほど。ですが相談役自身の努力もあったんですよね?

    阿部相談役 さぁ、どうだか(笑)ですが確かに当時は人として仲良くならないと、一にも二にも取り合ってもらえませんでした。
    昔は部外者でもオフィスの中にどんどん入って行けましたので、それこそあちこちで名刺を配ったりもしていましたが、当然、最初は、相手にしてもらえません。

    けれど、二度、三度と通ううちに、少しずつ顔馴染みになって、ちょっとした相談事も出てくるんですよね。

    そうやってせっかく受注をもらっても、社内で他の工事と重なってしまうと、ここで「オマエ、ひとりで行け」という話になって、仕方がないのでダットサンに電源装置を積んで一人で遠くの現場に向かうわけです。ところが、荷下ろしだけは一人でできないんですよ。そこで顔なじみの現地担当者や他社さんに「すみませんが、降ろすの手伝ってもらえませんか?」なんて頼んだりしてね(笑)

    いまでこそ、作業者名簿を提出してきちんと相手の許可を得ないと規定の作業ができないルールですが、その頃は全体が牧歌的だったので、仕事先の担当者さんも他社の下請け業者さんも、そしてもちろん私どもも、お互いに持ちつ持たれつの阿吽の呼吸で、それぞれに相手の手が足りないところを手伝ったり手伝ってもらったりしたんです。

    そうやって仲良くなると、仕事先から出張の宿なども教えてもらうことができました。県庁所在地から遠く離れた他県の町や村などは、こちらは現地が初めてなので、まったく勝手がわかりません。正直にそれを告げると「うちの担当者(その工事を管理するために派遣されるお客様側の責任者)と同じ宿を予約してあげるから」と言われて、現地で仕事先の方と同じ宿に泊まり、それこそお酒を飲みに連れて行ってもらったり、真面目な方だと仕様についてとことん話し合ったり、そうやって地道に地道に信頼関係を築いてきました。

    いまの若い方が聞くと驚かれるかもしれませんが、昭和の時代の営業ってそんな感じだったんですよね。効率は悪いけれど、一度関係性ができてしまうと、お互いに相手を裏切れないような気持ちも芽生えたりしました。

    編集部 ありがとうございました。私も昭和世代なので阿部相談役のお気持ちがよくわかります!次回の続きを楽しみにしています。

    (つづく)