ミカド電装商事は現在の社名で電源のバックアップ事業に取り組み始めてから60年になります。そこで今回から何回かにわたり、当社と深い関わりのある産業用蓄電池の歴史をいくつかピックアップして、つくる側の目線や社会への影響を中心に記事にしていきたいと思います。第一回目は「クロライド式鉛蓄電池」です。
日本で初めて作られた予備電源用国産蓄電池
据置蓄電池の歴史は意外に古く、その始まりは1902~3年(明治35~6年)にさかのぼります。電灯事業が黎明期を迎えようとしていたその当時は電力供給が不安定で停電も多く、劇場、映画館などではすでに予備電源として蓄電池に需要がありました。しかしこの頃は国内に容量の大きな蓄電池の製造技術がなくすべてを輸入品に頼っていました。
日本で初めて作られた予備電源用国産蓄電池は、GSユアサの前身のそのまた前身、島津製作所が自社の工場用に製作したクロライド式という蓄電池です。正しくは「クロライド式陽極板鉛電池」と呼ぶことからもわかるように、この電池の極板は、表面積をできるだけ大きくするためにリボン状にした純鉛を巻いて、基盤の円孔に差し込んであるのが特徴です。
クロライド式電池は1905年(明治38年)年に日露戦争下の海軍に納入され哨艦和泉に据え付けられました。そしてこの電源を用いて旗艦三笠に向けて発信されたのが、あの有名な「敵艦見ユ… 本日天気晴朗ナレドモ波高シ」なのです。
【天気晴朗ナレドモ波高シ】
この瞬間、三笠を先頭に連合艦隊全艦は唸りを上げて進撃する。#三笠 #日本海海戦 #バルチック艦隊 #東郷平八郎 #秋山真之 pic.twitter.com/M0qGgN1BpG— 石原知輝@大日本帝国海軍細密画家 (@kaoru_343_pen) October 19, 2018
日本初の産業用蓄電池の納入先は当社と同名の京都の映画館!
国産のクロライド式据置蓄電池が予備電源として初めて納入された先は、京都新京極のミカド館という活動写真館でした。偶然にも当社と同じ名前の映画館に深いご縁を感じますね!京都では停電のときでもミカド館だけが煌々と点灯されるので市民の注目するところとなったようです。この電池は大丸や東京帝国劇場にも納入され予備電源としての価値が高く評価されました。
クロライド式据置蓄電池は1907年(明治40年)頃、豊田織機工場でも予備電源として使用され、停電による作業の中断を防ぎ安全と生産性に効果を上げていましたが、この頃の豊田織機工場の動力源は商用電力ではなく石油やガスを燃料とする発動機(自家発電)でした。豊田の織機工場が名古屋電灯から電力の供給を受けるようになるのは1916年(大正5年)のことです。1910年代は工場の動力源が商用電力に統一されていく過渡期にあり、これ以後製造業の電化率が急速に高まっていきました。
大正の初期まで輸入依存が続いた蓄電池ですが、一気に国産化が進んだのが1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦以降です。戦争で輸入が途絶え自給自足の必要に迫られたのです。蓄電池の需要もますます増えて、複数の蓄電池製造会社が法人として設立されたのもこの頃です。GSユアサの前身の前身 島津製作所が蓄電池部門を分離して日本電池(株)を設立したのが1916年(大正5年)、GSユアサのもうひとつの前身 湯浅蓄電池製造(株)も1918年(大正7年)に設立されています。
沢田元一郎会長のひとことコメント
現在の蓄電池は鉛を細かい粒子にして表面積を増やしていますが、当時はそれができなかったため、こんな形になったようです。とてもユニークな見た目ですが、その頃はこれが最新のテクノロジーだったんですね。