2022年10月現在での日本人ノーベル賞受賞者は28人です。ですがいったい何をした人なのかよくわからないという方も多いのではないでしょうか?今回は2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏です。
タンパク質の分析手法を社命で研究、「間違い」で大発見!
田中耕一氏(株式会社島津製作所フェロー:受賞時)はノーベル化学賞を2002年(平成14年)に43歳で受賞しました。
授賞理由は「生体高分子の同定及び構造解析のための手法の開発」です。これは、それまで非常に難しいと考えられていたタンパク質の質量分析を可能にした画期的な手法です。
分子の質量を測定するためにはその分子に強いレーザー光を当て、正または負の電荷を持ったイオンの状態にして気化させなければなりませんが、タンパク質はレーザーを当てると簡単に分解してしまう特性があるため、生命活動で重要な役割を果たしている物質でありながら、質量の分析はそれまで困難とされていたのです。
田中氏は元々電気工学の専門でしたが、東北大学を卒業後の1983年4月に分析計測機器製造の島津製作所に入社し、社命によってタンパク質をレーザー分析する研究に従事していました。
そこでレーザーを当ててもタンパク質が壊れない「熱エネルギー緩衝材」について実験を繰り返していたところ、間違って試薬にグリセリンを混ぜてしまいました。ところがこのグリセリン入りの試薬でタンパク質が壊れずに気化したのです。
このとき田中氏は入社2年目の25歳。この偶然ともいえる大発見が医療や新薬の開発技術に大きく貢献し、それが20年後のノーベル賞につながりました。
世界で初めてのサラリーマン受賞者
田中氏のノーベル化学賞受賞は世間で大きな話題になりました。それは田中氏が博士や修士などの学位がない民間企業の一社員だったからです。同士にとっても周囲にとってもノーベル賞の受賞はまったくの想定外でした。
そのときの様子を田中氏は以下のように述べています。
2002年10月9日は残業のない水曜日で帰ろうとしていたら、同僚が私に電話を取り次いでくれ、それが最初でした。「ノーベル何とか賞を授与したいから受けるか?」というふうなことを多分言われ、よくわからないまま「イエス」と答えたら、30分後には会社中の電話が鳴り出し、3時間後に記者会見でした。
そのため、島津製作所で開かれた記者会見には何の準備もないまま、ヒゲもそらず作業服で取材に応じた田中氏でしたが、普通のサラリーマンらしい朴訥な人柄や、20回以上もお見合いを重ねて結婚したエピソードなどでそのキャラクターが人気を呼び、氏の受賞は今までとは違う意味で大きな話題になりました。
重責に悩むも、現在は新しい研究成果を発表し再び表舞台へ
こちらの記事で同氏は「ノーベル賞がつらかった」と述べています。田中氏自身がノーベル賞に値することをやっていたとは全く思っておらず、長い間、何か大きなことを成し遂げた気持ちになれなかったそうです。
実際に同士の受賞には、類似の成果を上げた二人のドイツ人研究者のほうがふさわしいのではないか?という批判もありました。ですが、この二人の研究者が共に論文の中で「田中氏が日本で行った学会発表を参考にした」と記述していたため、同氏の貢献が先と認められたようです。
その田中氏が近年また大きな研究成果を発表しました。それは新しいタンパクの発見です。その新しいタンパク質はアルツハイマー病と関係があるため、血液を調べることでアルツハイマー病になる30年も前に発症リスクがわかる可能性が出てきました。
世間の大きな注目やノーベル賞の重責に悩み、10数年間マスコミから離れていた田中氏でしたが、この成果によって再び報道各社の取材に応じるようになり、田中氏のチームが開発した「血液バイオマーカー検査」も現在世界中から注目されています。
ちなみにこの新技術も実は偶然の産物らしいのですが、いま「血液一滴による病気の超早期発見」に取り組んでいる田中氏には、まさに”偶然は必然”という言葉が一番当てはまるのかもしれません。
(ミカドONLINE 編集部)
参考/引用: 「ノーベル賞がつらかった」田中耕一が初めて明かした16年間の“苦闘” | 文春オンライン 田中耕一 – ★ノーベル化学賞をわかりやすく – Cute.Guides at 九州大学 Kyushu University ノーベル受賞 歩んだ10年、20年 田中耕一さん、山中伸弥さん特別対談:地域ニュース : 読売新聞 など