1799年(寛政11年) 筑後国久留米のべっ甲細工師の長男として生まれる
1807年(文化4年) 開かずの硯箱を製作/8歳前後
1820年代 弓曳童子、童子盃台などからくり人形の傑作を製作/20代
1834年(天保5年) 実用品制作のため大阪に移住/35歳前後
1830年代後半 懐中燭台、無尽灯などヒット商品を製造販売/35~40歳前後
1847年(弘化4年) 天文学を学ぶために土御門家に入門/49歳
1849年(嘉永2年) 優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号/50歳前後
1850年(嘉永3年) 天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成/51歳前後
1853年(嘉永6年) 佐賀藩の精煉方に着任/54歳前後
1862年(文久2年) 幕府蒸気船の千代田形蒸気罐を修繕する/63歳前後
1864年(元治元年) 佐賀から久留米に帰る/65歳前後
1873年(明治6年) 新政府の首都となった東京に移る/73歳
1875年(明治8年) 電信機等の機械製作所を銀座に開店/75歳
1881年(昭和2年) 82歳で死去/享年82歳
若い頃はからくり人形興行師
田中久重(たなかひさしげ)(からくり儀右衛門)は江戸末期から明治にかけて活躍した発明家であり天才技術者です。そして東芝の祖でもあります。
久重の幼名は儀右衛門(ぎえもん)と言い、若い頃は弓曳童子、茶運び人形、文字書き人形など、電池もセンサーもない時代に、糸やぜんまい、木の歯車だけで、まるで電子制御のように動きの精巧なからくり人形の傑作を次々と制作し、上方や江戸を中心に興行で生計を立てていました。
それらを複製して再現させた人形の動画がネットに多数公開されていますので、ぜひ一度ご覧いただきたいです。顔まわりの動作など想像以上の細かな動きに驚かれると思います。
多くの天才技術者たちと同様に、久重も幼いころから才能を発揮し、最初の発明は8歳頃に作った「開かずの硯箱」と言われています。
これは寺子屋でいじめられ硯箱をいたずらされた久重が父親と相談して、硯箱に他人には容易に開けられない細工をしたものです。
久重は14歳のときに家業のべっ甲細工業を継がないことを父親に告げ、からくり人形師になる決意をしました。
その背景には、城下の護国神社の祭礼でからくり人形の見世物が人々を大いに喜ばせ、拍手喝采を浴びている魅力的な風景があったとも言われています。
逆境にも負けず年齢にも負けずひたすら発明、ひたすら学ぶ
精巧な動きが評判を呼び、からくり師として各地にその名を知られるようになった久重でしたが、久重が30歳になる頃、天保の改革で倹約が推し進められ娯楽であるからくりの興行が難しくなってしまったのです。
そこで久重は大阪に居を構えて実用品の製作に転じました。そして36歳の頃に携帯用折り畳み式燭台を作り、さらに39歳の頃にはロウソクの10倍の明るさでしかも一晩中消えないという「無尽灯」を作りました。
この製品がどちらも大ヒット!燭台は医師の往診に重宝され、燭台は遅くまで帳簿作業がある商家に売れました。無尽灯は今の値段で15万円~20万円の高額商品でしたが、商家なのでそれぐらいの金額は必要経費だったのかもしれません。
これで財を成した久重でしたが、実はそれまでに一度、せっかく購入した家を火事で焼失するという憂き目にもあっています。大塩平八郎の乱で大阪中が火の海になってしまったからです。
しかし久重はそれに落ち込むことなく、その後も多くの新たな発明に取り組みました。
鎖国の時代も終盤を迎え西洋から様々な興味深い品々が入ってくるようになると、学びの意欲が尽きない久重は、西洋の天文・数理を学ぶことを決意し、三両あれば一年暮らせると言われたその時代に、五十両の大金を握り締め、”天文暦学の総本山”京都梅小路・土御門家に入門します。
このときの久重は49歳。当時なら隠居の年齢かもしれませんが、まだまだ現役バリバリのチャレンジャーだったんですね。
75歳で銀座に機械製作所をオープン
その後、久重はひそかに自前で藩内の富国強兵を進めていた鍋島直正の佐賀藩にスカウトされます。これはかつて京都の蘭学塾で出会った佐野常民(佐賀藩士。のちに日本赤十字社を創立)の推挙によるものです。
佐賀藩の精煉方に着任した久重はそこで、蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造したり、アームストロング砲の製作、反射炉の設計(改築)、蒸気船の修繕などを担当しました。
そんな久重に今度は明治政府からオファーが入ります。ぜひ東京に出てきて、モールス
信号、報時機、電話機などを作ってほしいという依頼です。
そこで久重はそれに応じてなんと73歳(!)で上京しそれらの製作を開始すると共に、2年後、銀座の一等地に機械製作を請け負う店舗を75歳で開店させました。この店を養子の二代目田中久重などが引継いで拡大させた会社がのちの東芝の「芝」のほう、つまり芝浦製作所になりました。
久重の店の入り口には「万般の機械、考案の依頼に応ず」という看板が掲げてあったそうです。
久重は請われれば収支を顧みずに喜んでなんでも作ったため、周囲が止めることもあったというエピソードが残っていますが、「人を喜ばせたい」「自分を必要としてくれる人がいる」という意欲が70代になっても衰えないエネルギーの源だったのかもしれません。まさに人気とやる気が健康の秘訣なのかも。
(ミカドONLINE編集部)
参考/参照記事 第3回講座 企業の歴史と産業遺産④ ~東芝~ 「創業者の素顔と京浜臨海部に於ける東芝の発展」(PDF) 東芝未来科学館:からくり儀右衛門の発明人生 – 田中久重ものがたり 3話 など