1856年(安政2年) 佐賀県に生まれる
1873年(明治6年) 工部省工学寮(在学中に改名)に入学/17歳前後
1877年(明治10年) 軍事偵察用の気球実験に成功/21歳前後
1879年(明治12年) 工部大学校を首席で卒業、3か月かけて渡英/23歳前後
1880年(明治13年) グラスゴー大学(英スコットランド)に留学、ケルビン卿の下で物理学、数学などを学び数々の研究を行う。その後グラスゴー市中央郵便局で半年間の実務研修/24歳前後
1883年(明治16年) 帰国。工部省電信局に入局。工部大学校電気工学科の初代日本人教授にも就任/27歳前後
1886年(明治19年) 隅田川の水面を導体とした導電式無線通信実験。帝国大学の教授に就任/30歳前後
1887年(明治20年) 逓信省工務局次長/31歳前後
1888年(明治21年) 電気学会の創設を宣言、第一回通常会で未来を予見する伝説の演説/32歳前後
1889年(明治22年) 逓信省工務局 局長/33歳前後
1892年(明治25年) 麻布の赤十字病院にて36歳で逝去
ケルビン卿に絶賛された日本人の愛弟子がいた
イギリスのケルビン卿(本名:ウィリアム・トムソン)といえば、絶対温度の単位にその名前が使われているように、熱力学の開拓者として有名な物理学者ですが、そのケルビンの門下生として教えを受け、優秀さを絶賛された日本人がいます。
その人の名は志田林三郎。佐賀県の多久出身で明治時代に活躍した日本の物理学者・電気工学者です。
志田は電気分野で日本最初の博士となり、帝国大学電気学科の初代日本人教授として電気学会を設立し、明治初期の極めて短期間のあいだに、国内の電気通信技術を世界に迫る水準にまで高めた人物です。
志田はイタリアのマルコーニが無線電信の実験に成功する10年も前に、隅田川の河口において、水の性質を利用した世界初の遠隔地無線通信の実験も行っています。
20代前半の志田がイギリスに渡ったのは工部大学校を卒業して3か月後のことでした。このシリーズで何度か触れているように、工学寮(のちに工部大学校に改名)は学生の生活費と学費のすべてを官費で賄い、卒業後は工部官僚の道が約束されている超エリート技術者養成機関です。
志田はそこで圧倒的な成績を収めて電信学科を首席で卒業したため、他の学部の首席者と共に明治政府からイギリス留学を命じられました。
小さい頃から神童と呼ばれ、ずば抜けた数学の才能が近所でも評判だった志田ですが、父を早くになくし家柄も低かったため、本来は学校に行ける身分ではありませんでした。しかし周囲の支援や教育に熱心だった領主の多久茂族に天才ぶりを見込まれて、領内の学校に入学を許可され、最終的には佐賀藩の藩命で東京の工学寮に入学しました。そこでどんどん頭角を現し官費留学生に選ばれるまでになったのです。
このサイトでご紹介した工部大学校の出身者の記事
国産初の大容量発電機を設計した中野初子(はつね)は佐賀県出身
国産初の白熱電球をつくった藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”
明治初期に海底ケーブル。日本の無線電信技術の基礎を築いた浅野応輔
イギリスでもいかんなく才能を発揮
志田の留学先は英国スコットランドのグラスゴー大学でした。そこで大学の主とまでいわれた著名な物理学者、ケルビン卿に師事できたのは、工部大学校の土木工学教師、ジョン・ペリーがケルビン卿の門弟だったからです。
志田は留学に当たってペリーの紹介状を持参していましたが、志田の真摯な勉学ぶりにケルビンが興味を持ち、自分のそばに置いたともいわれています。
ケルビン卿の指導の熱心さに他の学生からやっかみの声も出て、林三郎が遠慮の気持ちを持つと、ケルビンはこう言ったそうです。
「真理を求めて一人の学生が悩んでいる。教師がそれを手助けして何が悪いのかね」
志田はグラスゴー大学でも才能を発揮して、勉学の面では、物理初級クラス1位、数学クラス上級試験2位、物理上級クラス数学試験1位など、素晴らしい成績を挙げました。
それだけでなく、独自の実験研究テーマとして与えられた「帯磁率(たいじりつ)の研究」に対して、大学全体で毎年1人だけに与えられる最優秀論文賞である「クレランド金賞」メダルを授与されました。
志田は1年の留学期間に4つの賞を取るだけでなく、学生でありながら自らの実験研究の成果を英国協会で講演し、自記電流計の研究成果を専門誌のフィロソフィカル・マガジン(Philosophical Magazine)に発表しています。また、同雑誌に掲載された英国人研究者の論文に対して反論を投稿するなど、すでに研究者としての立ち位置だったと思われます。
このような志田の熱心な取り組みと才能に対して、教授のケルビン卿は「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生である」と絶賛し、大変高く評価していたそうです。
志田は帰国後、英国で論文発表した自記電流計を実際に制作しており、2018年に装置の一部の現存が確認されました。
(参照)「電気工学の祖」志田林三郎考案の計測器、一部現存を確認
実力と高い先見の明を持ちながら36歳の若さで逝去
帰国後、志田は工部省電信局に入局し、新国家の電信業務を指揮する立場になりました。また同年、工部大学校電気工学科の初代日本人教授にも就任しました。
志田はその後、逓信省の設立に関わり、時期尚早という反対の声をはねのけて、電気学会も設立しました(会長は当時の逓信大臣榎本武揚で自身は幹事)。日本の将来を展望した時、この時期の電気学会設立は必要という信念を曲げなかったのです。
1888年(明治21年)に開催された電気学会の第1回通常会では、幹事である志田も演説を行いましたが、この時語った『将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測』は確かな根拠を基に電気工学の未来を予測したもので、志田の先見性の高さが表れ、今なお評価されています。
1892年(明治25年)志田は36歳で亡くなりました。その2年前に志田は逓信省を解雇され翌年には帝国大学教授も辞職して失業しています。
その背景には志田を登用し、官学両面にわたる活躍を支えてきた榎本武揚逓信大臣と前島密(まえじまひそか)逓信次官が共に辞職し、代わって後藤象次郎が逓信大臣に就任するなど、政府の権力闘争があったと言われています。部下達がストライキを企てるほど志田の解雇には内部の不満が高まりましたが、このストライキは事前に発覚して失敗に終わりました。
志田の病名は肺結核とされていますが、学者としても、官僚としても、電気事業家としても、すべてにおいて優秀であった志田は退官しても多忙でした。
この頃は漏電が失火原因ではないかといわれる国会議事堂の火事などもあり、電燈事業に不安が広がっていた時期でもありました。志田はその誤解や警戒心を解くべく東西奔走していたため、過労や心労が健康に影響を及ぼしてしまったのかもしれません。
志田の訃報を聞いた恩師のケルビン卿は驚き、激しく悲しんだそうです。
最後に電気学会で志田が演説した『将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測』をわかりやすくまとめたリストをご紹介いたします。(出典:「去華就実」と郷土の先覚者たち 第27回 志田林三郎 (中))これを見ると明治中期の志田がいかに高い先見の明を持っていたかよくわかり、36歳での早逝が本当に惜しまれます。
1 | 高速度での音声多重通信 |
2 | 遠隔地との通信通話 |
3 | 海外で演じられる歌や音楽を同時受信して楽しめること(海外からのラジオ実況放送) |
4 | 山間部の水力発電で得たエネルギーを長距離送電して、大都市で活用すること |
5 | 黒煙白煙を吐かない電気列車や電気船舶が普及するであろうこと |
6 | 電気飛行船に乗って空中を散策できること |
7 | 光を電気磁気信号に変えることによって、映像情報を遠隔地に伝送し、遠くにいる人と自在に互いの顔を見ることができること(テレビジョン) |
8 | 音声を電気信号に変えることによって機械に記録(録音)し、後で自由に再生できること(録音再生装置、テープレコーダー) |
9 | 太陽黒点、オーロラ、気象などの観測を通じて、地電気、地磁気、空間電気の関係が明らかになり、地震予知、気象予報、豊作凶作の予測などが可能となること(宇宙地球電磁気学の提唱) |
(ミカドONLINE編集部)
参考/参照記事 「去華就実」と郷土の先覚者たち 第26回 志田林三郎 (上) 志田林三郎(9)手書き英文210ページ卒論 3カ月かけ渡英「電気工学…真理を知りたい」 志田林三郎 | 嚶鳴フォーラム 電気技術の礎を築いた志田林三郎(PDF) など