電気と技術の知られざる偉人たち(05)~明治初期に海底ケーブル。日本の無線電信技術の基礎を築いた浅野応輔~

    国産初の大容量発電機を設計した中野初子(はつね)は佐賀県出身_sanba-garasu
    浅野応輔 年表
    1859年(安政6年)岡山県に生まれる
    1881年(明治14年)工部大学校電信科卒業、工部大学校教官/22歳前後
    1882年(明治15年)工部大学校助教授/23歳前後
    1887年(明治20年)東京電信学校長兼幹事/28歳前後
    1891年(明治24年)逓信省電務局電気試験所(現電子技術総合研究所)初代所長/32歳前後
    1893年(明治26年)欧米各国へ派遣/34歳前後
    1895年(明治28年)電気事業取締規則を編成/36歳前後
    1897年(明治30年)大隅-台湾間の海底電信線敷設竣工/38歳前後
    1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)教授/40歳前後
    1903年(明治36年)長崎-台湾間の通信に成功/44歳前後
    1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長/61歳前後
    1940年(昭和15年)9月23日死去、享年82歳

    浅野応輔は電気工学三羽鳥のひとり

    明治政府が創設した工部大学校は日本の発展に貢献した技術者を多数輩出したことで知られる工業技術教育機関です。その中で電信科の三期生である中野初子、藤岡市助、浅野応輔が外国人講師エアトンの指導の下に、日本で初めてアーク灯を点灯させたことは先に書いた通りです。

    (参考)国産初の大容量発電機を設計した中野初子(はつね)は佐賀県出身
    (参考)国産初の白熱電球をつくった藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”

    (画像:明治の人々を育てた電信修技学校と工部大学校

    中野初子は母校の指導者として後進の育成に当たり、藤岡市助は産業界に転身して多大な功績を残しましたが、今回ご紹介する浅野応輔は通信技師として活躍し、近代的な通信手段がまだ何もなかった時代に無線研究の基礎を築きました。

    工部大学校の電信科三期生は6名いますが、その中でこの3名がエアトンのアーク点灯の助手に選ばれたということは、それだけ成績が優秀だったのだと思われますが、それは後の実績にも表れており、この3名は日本の電気工学を築いた三羽鳥と言われています。

    マルコーニの雑誌記事をきっかけに無線通信研究を本格開始

    浅野応輔(画像:Wikipedia

    浅野応輔はほかの2名と同様に卒業後は母校に残り教官となりましたが、健康を害したため先輩教授の志田林三郎にすすめられて、電信建築長として建柱のため地方まわりをしていました。

    その後東京に戻り、逓信省に電気試験所(現電子技術総合研究所)が新設されると(1894年/明治24年)初代の所長を命じられ、1914年(大正3年)11月にいたるまで23年間名所長として腕を振るいました。

    無線研究のきっかけとなったのは、イタリアのマルコーニが無線(電波)通信の実演に成功したという海外雑誌の記事です。

    その雑誌は『エレクトリシャン』という名前で、マルコーニの支援者だったプリースの講演録が掲載されていました。日本には船便で届いたようですが、それを見た当時逓信省管船局長(または航路標識管理所長)だった石橋絢彦(あやひこ)が逓信省電気試験所長だった浅野応輔を訪ねてきました。

    その頃の通信はトン・ツー・トン・ツーの音声信号を電線を通して遠隔地に送るものでしたが、石橋はその記事でマルコーニの電波による無線通信を知り、これを灯台間の連絡手段として使えないか?と考え、浅野に研究の依頼をしに来たのです。

    (参考)電波の歴史~③生家の財力と母の支援と卓越のセンスで電波を実用化

    記事を読んだ浅野は、すぐに電信主任の松代松之助に無線の研究を命じました。松代は少ない文献を参考にして火花式送信機とコヒーラ検知器を作りました。そして1897年(明治30年)10月に送信機を東京の金杉橋に、受信機を現在のレインボー・ブリッシがある付近の海に船に搭載して無線通信に成功しました。

    ここから日本の無線研究が始まりました。ちなみに浅野にマルコーニの記事を持ち込んだ石橋絢彦も工部大学校の卒業生(土木科一期生)です。この頃の日本の技術革新はまさに工部大学校の卒業生たちによって支えられていたといっても過言ではないかもしれません。

    自身が発明した受信機で長崎~台湾間の長距離通信にも成功

    浅野応輔はそれより少し前(1893年/明治26年)、電気事業調査のため欧米各国へ派遣され、大西洋横断海底電信線敷設事業にも参加しています。その後帰国して、電気事業取締規則を編成するだけでなく、1897年には自身が設計・工事に携わった「大隅~台湾間 ( 約 1400 km) 」の海底電信線が竣工して不朽の名声を博しました。

    この頃の日本の通信環境は、飛脚がまだ活躍している地域があるなど、国内的にはまだまだ未整備でしたが、浅野が関わった海底電信線を通じていち早く世界に繋がった意義は大きく、海外の情報がより早く日本に入ってくるようになりました。

    浅野は設計者としてだけでなく発明家としても名を残しており、1903年(明治36年)には日本で最初の検波器である水銀検波器(受信機)を発明し、それを用いて長崎~台湾間の長距離通信にも成功しています。

    浅野応輔は電信・電話事業の初期および無線電信の黎明期には電気部品(碍子・電線・パラフィンコンデンサー・電池など)の製作や電信回線の研究に努め、技術が普及してきたその後は電気単位の制定や電気用品の試験・検定の実施・電信電話・電力の現業に力を入れてきました。

    現代の私たちにとって、電話は当たり前の通信手段ですが、ここに至るまでには多くの優秀な技術者たちのたゆまざる研究開発がありました。

    逆に考えると、いまベンチャーと言われる人々の様々な研究の中にも未来を大きく変える種が含まれているのかもしれません。

    150年も前の時代に、そこに多大な予算とエネルギーを注ぎ込んで来た明治政府もまた、「海外に追いつけ、追い越せ」の気迫に満ちた、アグレッシブな集団であったんだろうな、と思うと同時に、必死で英語を学び外国人講師が教える英語の授業に食らいついていった当時の若者たちのエネルギーに思いをはせる私です。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 明治の人々を育てた電信修技学校と工部大学校 誠之館人物誌 「浅野應輔(浅野応輔)」 電気工学者、工学博士、東京帝国大学教授、早稲田大学教授 明治の文明開化を開いた工部大学校 岡山北西ロータリークラブ(PDF) など