電気と技術の知られざる偉人たち(14)~石丸安世。明治初期に碍子の国産化を実現!私塾からは優秀な人材が多数輩出~

    沖牙太郎 年表
    1834年(天保5年) 佐賀城下に生まれる。 幼名虎五郎。
    1854年(安政元年) 蘭学寮に入る/20歳前後
    1856年(安政3年) 
    長崎海軍伝習生となる。 (~安政6年)/22歳前後
    1861年(文久元年)秀島之助 中牟田倉之助と共に英学修業 のため長崎に行く。 この頃、フルベッキに就く。/27歳前後
    1864年(元治元年) 馬渡八郎 らと共にイギリスに渡る。/30歳前後
    1867年(慶応3年) 佐賀藩パリ万国博派遣団(代表佐野常民)を助けるため、フランスに渡る。/33歳前後
    1868年(明治元年) 欧州より帰国する。/34歳前後
    1869年(明治2年) 佐賀藩海軍、軍事局、 大弁務となる。/35歳前後
    1870年(明治3年) G. ワグネルを佐賀に招き、陶磁器の技術 改良に当らせる。/36歳前後
    1871年(明治4年) 4月、工部省に入省する。 8月、 電信機掛が電信寮となり、初代電信頭となる。 12月、従五位に叙せられる。/37歳前後
    1872年(明治5年) 工部省、有田の深川栄左衛門に電気礎子の 試作を命じ、漸次、製造を始める。/38歳前後
    1874年(明治7年) 7月、大蔵省、 造幣頭となる。/40歳前後
    1877年(明治10年) 大蔵省、大書記官となり、 1月に寮が局に かわり、造幣局長となる。/XX歳前後
    1881年(明治14年) 大蔵省書記局兼務を命ぜられる。 主船局次長、海軍省など歴任する。/43歳前後
    1885年(明治18年) 海軍省、 小野浜造船所長となる。/51歳前後
    1886年(明治19年) 1月、 海軍大匠司に任ぜられる。/52歳前後
    1888年(明治21年) 正五位に叙せられる。 のち元老院議官とな る。 正4位に叙せられる。/54歳前後
    1902年(明治35年) 5月6日、死去。 年69才。 特旨をもって従 三位に叙せられる。/59歳
    (出典:佐賀県立美術館

    石丸安世の私塾「経綸舎」からは優秀な人材が輩出

    当時の電信線敷設工事の様子(画像:郵政博物館)

    石丸安世(やすよ)は江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての佐賀藩士、官吏、政治家です。工部省の初代電信頭(でんしんのかみ)として東京-長崎間の電信開通を担当したので「電信の祖」とも呼ばれています。

    それだけでなく、石丸安世の周辺からは多くの人材が輩出しています。

    電気工学者の中野初子(はつね)やケルビン卿に絶賛された早逝の天才志田林三郎は石丸安世が開設した私塾「経綸舎」の門下生でした。前回取り上げた沖電気の創始者 沖牙太郎は石丸安世の支援を受け、安世の邸宅の長屋に最初の工場を設立しています。

    石丸安世はどんな人物だったのでしょうか?

    イギリスに密航して最先端の技術を学ぶ

    フルベッキと致遠館の生徒たち(画像:Wikipedia)

    佐賀県生まれの石丸安世は20歳のときに幕府の海軍伝習所(長崎にあったオランダ人講師による蘭学学習所)で学びましたが、「これからはオランダよりも英米に学ぶべき」と判断した藩主 鍋島直正の命により、英語や英学(英語圏の学術・技術)を習得すべき3名の佐賀藩士のうちのひとりに指名されました。

    そして佐賀藩が長崎(佐賀藩諫早家の屋敷内)に設立した英学学習所「致遠館」で、同藩が招聘したオランダ人宣教師 フルベッキに師事しました。フルベッキはオランダ人ですが米国に移住していたため英語が堪能で、同時期に幕府が長崎に設立していた英学所「済美館」ですでに英語を教えていた人物でした。

    やがて安世は藩随一の英語の達人になり藩の英語通訳として長崎に赴任し、藩の貿易や情報収集に従事しました。その過程でスコットランド商人のグラバーと知り合いやがて彼の信頼を得るようになりました。

    1864年(元治元年)安世はグラバーの手引きで同僚の馬渡八郎と共にイギリスに渡ります。海外渡航がご法度だったこの時代、この渡英は密航ということになり見つかれば死罪という重い罪ですが、一説によればこれは藩主 鍋島直正がグラバーに依頼したものらしく、藩容認、または藩命に近いミッションだったのかもしれません。

    イギリスで英語や数学のほか、造船や電信など最先端の技術を学んだ安世は1868(明治元年)年に帰国して佐賀に戻り、得意の語学を活かして長崎在留の外国人とも交流を深めました。

    やがて安世は明治政府に入り、工部省の初代電信頭になりました。

    国産碍子の立役者

    石丸安世は官僚として東京―長崎間の電信架設を推進した人です。当時の電信は庶民にとって未知の技術であり、誤解や迷信による妨害運動も多々起こりました。

    「破天荒の大事業」と呼ばれても安世は国内のインフラ整備を進めました。安世が初代電信頭になった1871年(明治4年)はデンマークの大北電信によって長崎⇔上海間と長崎⇔ウラジオストック間を結ぶ海底ケーブルが引かれた年でもありました。しかし長崎と東京を結ぶ電信線がなかったため、首都東京からはまだ国際発信ができなかったのです。

    石丸が電信頭だった3年で、日本の電信網は目覚ましく普及します。明治4年度末に陸上の電線は76キロ、国内の電報発信は約2万通でしたが、7年度末には約5000キロ、約35万通に増えました。

    その普及に大きく貢献したのが安世の地元 佐賀 有田でつくられた磁器製の碍子です。それまで電線の架設に必要な碍子は全てイギリスやドイツなどからの輸入で、高価でありながら品質は非常に悪いものでした。そこで安世は日本の磁器発祥の地である有田の技術を用いて磁器による碍子の製造を発案し、第八代深川栄左衛門(のちの㈱香蘭社創業者)に磁器碍子の製造を依頼したのです。

    深川栄左衛門は、陶磁器を主としていた有田焼技術を基に研究努力の末、磁器碍子を完成さ、当時の工部省電信寮に納入しました。電信寮では 1873 年(明治 6 年)お雇い外国人モリスによって試験が行われ、この磁器碍子は外国製碍子の性能をはるかにしのぐ高い性能をもつことが確認されました。

    この技術は日本の電気インフラ拡充に大きな貢献をし、碍子といえば今なおこの磁器製を指すほど重要な製品となっています。そして、この磁器碍子技術はのちの工業用ファインセラミックス誕生のきっかけとなりました。

    背景となったのは、イギリスから帰国直後の安世が長崎で築いた外国人との人脈であり、有田の窯元たちの交流でした。佐賀県人であった安世は「伊万里の石炭と有田の磁器は肥前(佐賀)の富を興す」ものだとして、長崎で知り合ったイギリス人の鉱山技師モリスを伊万里に連れて行ったり、ドイツ人化学者ワグネルを有田焼の指導に当たらせて近代化を推進させていたのです。

    つながり広がる学びの輪

    安世は伊万里の炭鉱に関わっていた入省前の時期に「経綸舎」という私塾を興しています。先のモリスを講師として招き、塾生に英語や数学や物理を教える教習所です。

    上京して工部省に入省したのちは東京でも東京経綸舎という私塾を開設しています。伊万里と東京それぞれの経綸舎からは、のちに日本の技術を支える人材が多数輩出しました。

    特に電気学会を創設した志田林三郎、中心メンバーであった石井理一、鶴田暢、吉田正秀、3 代目会長となった中野初子などは「経綸舎」の出身であり、石丸安世がいなければ電気学会の創設も数十年遅れていたのではないかとも言われています。

    安世の出身地である佐賀藩では藩主の鍋島直正が世界情勢に明るく、財政難でありながらも藩校の創設には思い切った予算を付けるなど、次世代を担う人材の育成に力を注いでいました。そのため、この時期に活躍した技術者には佐賀出身者が多いです。

    安世が当時ベンチャーだった沖電気の創始者 沖牙太郎に所有する長屋を(工場として)提供したのも、そういった佐賀藩の気風を反映したものだったのかもしれません。また安世が佐賀藩精錬方だった時代の部下には、からくり義衛門こと田中久重(東芝の源流)もいます。

    安世は佐賀県内ではどうやら認知度が低いらしいのですが、自身の功績でだけでなく、多数の優秀な人材を輩出させていることは特筆に値すると思います。安世について調べていくと、技術を学び、技術を伝え、人を育てる重要性について再認識させられます。

    石丸安世は現在、鉄道の井上勝、郵便の前島密、電話の石井忠亮と並ぶ「逓信四天王」の一人と称されており、その実績も佐賀県の職員だった多久島 澄子氏によって書籍化されています。

    🌎日本電信の祖 石丸安世―慶応元年密航留学した佐賀藩士

    「これは読んでみたい!と思ったことを最後に記してこの回を終えたいと思います。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 佐賀県立博物館・美術館報(佐賀県立美博物館・佐賀県立美術館/PDF)  など