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最初の無線はモールス信号しか送れませんでした
前回は世界で初めて無線の商業化に成功したマルコーニについてお届けしましたが、この頃の無線はモールス信号しか送ることができず、電文のやりとりは通信会社の技師が船舶に常駐して自社のレンタル設備をつかって行いました。つまり慣れた技術者でなければ、通信内容を解読できなかったのです。また信号自体も全世界で統一されておらず、いくつかの方式が混在していました。
その時代に肉声が送れる無線通信を目標に掲げた発明家がいました。カナダのレジナルド・フェッセンデン(1866年 – 1932年)です。フェッセンデンは小さい頃から電気工学に強い関心があり、米国移住後、独学の末にエジソンの研究所に採用されて頭角を現していました。
人の声や音楽を無線で送りたい
フェッセンデンは多くの実績を残したため、財政難に陥ったエジソン研究所をリストラされたあとも、大学で教鞭をとるなど仕事には事欠きませんでしたが、1901年にマルコーニがニューファンドランド島でイギリスからの無線を受信する実験(大西洋横断無線)に成功したという知らせを聞き、「単にビープ音の長短で内容をやりとりするのではなく、人の声や音楽そのものを無線で送れないか?」と考えました。そして無線システム自体も、自分ならマルコーニよりもっといいものがつくれると確信したのです。
「不可能」「実用性がない」などの周囲の声にも屈せず研究を開始したフェッセンデンは、大学よりも環境と予算に恵まれた気象局に移り、やがて音声を電波に乗せる技術の開発に成功します。これは今もAMラジオでつかわれている振幅変調という方式で、違った周波数の波を組み合わて電波と音の相互変換が可能な波形にするものでした。
アイデアのきっかけは助手がモールス信号の操作を誤り異音を発生させてしまったことに端を発するようですが、この方式の実用化には大きな課題がありました。音声情報を電波に乗せるためには今以上にもっともっと非常に細かく小刻みな波を持つ電波が必要なのです。つまり高周波の電波です。
高周波発電機の製作を依頼
しかし当時の発電機では10kHzしか出せずまったく使い物になりません。そこでフェッセンデンはアメリカの富豪トーマス・ギブンとヘイ・ウォーカーの資金援助で会社をつくり、高周波の発電機の制作をGE社とウエスティングハウス社に打診します。フェッセンデンはそれよりも前に回転式火花送信機をつかった音声送信に成功していますが、それはあくまでもその場しのぎの方法でした。本命はもちろん、高密度の正弦波で品質の高い電波を送信できる高周波発電機のほうでしたが、完成までには時間とお金がかかるため、手っ取り早く高い出力が得られる既存の技術を応用して自らの実験を行っていたようです。
交流発電機は回転を速くすれば高周波が得られる理論ですが、回転数を上げるためには技術的な限度があります。フェッセンデンからの依頼を受けたGE社のアレキサンダーソンは1906年の夏、360本の電極を1分間に8,500回転させることで50kHzの高周波を得ることに成功しました。やがてアレキサンダーソンの高周波発電機は、秋には75kHzで500ワットの出力が得られるようになりました。
世界初のラジオ番組はクリスマスのサプライズ放送!
私達に馴染みのある東北放送TBCラジオの周波数が1260KHzであることを思えば、75KHzはまだまだ初期の数字と言わざるを得ませんが、この発電機に加えて同じ時期に発明された三極真空管(二極真空管に増幅機能が追加)の登場で、商業ラジオ放送への足掛かりが一気に固まりました。
1906年のクリスマスイブの日、フェッセンデンは自分の無線システムをつかい世界で初めて不特定多数に向けて音楽と話し声を発信しました。傍受したのは主に、大西洋を航行していたユナイテッド・フルーツ社の貨物船の乗組員達と言われていますが、果物相場の動きをモールス信号で聞いていた最中、突然、午後9時に「CQ,CQ,CQ(一斉呼び出し)」のモールス信号が割り込み、ヘンデルのラルゴのレコード演奏とフェッセンデン自身のバイオリンと歌の生演奏、そして聖書の言葉を引用した結びの言葉で締めくくられる内容が聞こえて来たのですから、どの人も相当驚いたのではないかと思います。トン・ツーしか聞こえなかった無機質な無線放送から突然豊かな音色の楽器の響きと人の声!そしてこれが世界で最初のラジオ放送とされ、フェッセンデンはラジオの父と呼ばれるようになりました。
英語版ですが、その様子を再現した動画があります。フェッセンデンのバイオリンと歌はそれほど上手ではなかったそうですが、動画ではプロ並みの演奏になっています(笑)放送終了後にカリブ海の船舶から、すぐにモールス信号で「明瞭に聞こえた」という第一報が入っていますね。