1847年(弘化4年) 法廷弁護士の息子としてロンドンに生まれる
1857年(安政3~4年) ユニバーシティカレッジスクールで学び始める/10歳前後
1864年(文久~元治元年) ユニバーシティカレッジ入学/17歳前後
1865年(元治~慶応元年) 数学のアンドリュース奨学金を獲得/18歳前後
1867年(慶応2~3年) グラスゴー大学のケルビン卿に師事/20歳前後
1868年(明治元年) 英国植民地インド政府の電信局赴任、回線の障害検出方法を開発/21歳前後
1870年(明治2~3年) インド政府電信局副監督/23歳前後
1873年(明治6年) 明治政府に招かれ工部大学校の教官として来日/26歳前後
1875年(明治8年) 工部大学校の同僚教官ジョン・ペリーとの共同研究で20以上の論文を発表/28歳前後
1879年(明治22年) フィンスベリー工科大学の応用物理学教授/32歳前後
1881年(明治14年) 最初の電流計と電圧計を開発、王立協会フェロー選出/34歳前後
1882年(明治15年) ペリーと共同で電気三輪車を発明/35歳前後
1901年(明治34年) 王立協会ロイヤル・メダル受賞/55歳前後
1908年(明治41年) 動脈系疾患のためロンドンの自宅で死去/61歳前後
優秀な技術者として日本に招かれたエアトン
明治政府が殖産興業政策を支える工部省管轄の教育機関として1871年(明治4)に開校した工部省工学寮は、数年後に工部大学校と名前を変え、それが東京大学工学部の前身となりました。工部大学校は実学を重んじた高等教育機関として、日本の近代化に重要な役割を果たしました。
その卒業生たちが様々な分野で高い実績を上げ、近代日本の礎を築いてきたことはこれまで書いた通りです。
一期生 志田林三郎(絶対温度のケルビン卿に絶賛された早逝の天才物理学者)
三期生 藤岡市助(藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”)
三期生 浅野応輔(日本の無線電信技術の基礎を築いた浅野応輔)
三期生 中野初子(国産初の大容量発電機を設計した中野初子(はつね))
この背景には、イギリスから招かれて1873年(明治6年)から1878年(明治11年)まで電信科の教授として学生たちを指導したウィリアム・エアトン(William Edward Ayrton 1847-1908)の存在を欠かすことができません。
明治政府は工部大学校を当時世界でも稀にみる総合的な工科大学とし、その教師をすべて優秀な外国人によって埋め、世界一流のイギリス式技術教育を移植しようとしました。そしてその外国人教授陣の一人して来日したのがウィリアム・エアトンでした。
来日したエアトンは26歳でしたが、決して若輩の研究者が極東の小さな島国に送り込まれわけではありません。エアトンはのちにケルヴィン卿と呼ばれ、絶対温度の単位K「ケルヴィン」の名の由来ともなった物理学の世界的な大家ウィリアム・トムソンに学び、電信に関する多くの論文を発表していました。
また当時イギリスの植民地だったインド電信局に入所し、在任中には陸上電信線の障害を迅速に特定する方法を開発しました。これによって代替回線の設置が不要になるなど大きな功績を上げそれによって電信局副監督に昇格しています。
目の前のものをよく観察し、自分の頭で考える教育
工部大学校の授業は外国人による英語の授業です。エアトンは電信科で教鞭をとり予科(最初の2年)で物理学、専門科(その後の2学年)で電信学を教えました。
時に学生や日本人スタッフを叱責するなど厳しく気難しい側面もありましたが、記憶や暗記よりも実学と実験を重んじ、自分の実験も盛んに手伝わせました。
授業中は学生たちに通り一遍の回答ができないような質問を投げかけ、その回答ぶりを評価して採点しました。また学生寮へ行って下級生に質問し、上級生や秀才の助け舟を得ないナマの実力を知ろうとしました。優等賞を授けるにあたっては、1回の試験結果ではなく、通年のすべての成績 ・学生実験の成績が評価され, 教授のオリジナルな実験研究を手伝った成績が特に重視されたそうです。
このオリジナルな実験は放課後に行われるため、学生たちの手伝いはボランティアとなります。学生たちは大半が武士階級の出身であったため、自ら手を使って長時間実験室で勤勉に働くのは抵抗感があったかもしれません。それでも学生たちは必死で学びエアトン自身も「学生たちはよくやった」と評しています。
エアトンは授業中さかんに「オリジナル ・インベスチゲーション(独自調査、独創的な研究)」という言葉を使いました。何事も形式的にやるのでは意味がなく、自分の目、自分の頭を使ってとことん考え、答えを自分で出すような指導を徹底しました。
ある時のテストでは、難問と簡単な問題を組み合わせた出題をし、難問のほうに取り組んで結局解けなかった学生(藤岡市助)に満点をつけたという逸話も残っています。エアトンにとっては点数を上げることよりも、難問にチャレンジする姿勢のほうが重要だったということですね。
そういったエアトンのアグレッシブな学びを要求する教育方針に、学習内容への理解がまだ至らない生徒たちは大いに苦しんだそうですが、後年は「それによって実力が養成された」と、卒業生の山川義太郎は振り返っています。
エアトンは学生たちにこのようにも言っています。
「決して人の真似などするな。フランス人がどういう発明をしたとか、ドイツ人がどういう研究をしたとか、そういったことを聞いても直ちにそれを真似るような卑屈ではいけません。何でも彼等の研究以上に一歩を進めて新機軸の発明を試みなければなりません。」
またエアトンは日本人の学生を評し、「日本人学生はおとなしく勤勉で応用力があるが、観察力には欠ける。日本人は記憶力よりも観察力を養うような訓練を幼いときからするべきだ」 と述べています。
そんなエアトンの指導の下で工部大学校電信科の三期生の学生たちが日本で初めてアーク灯を灯したのは有名な話ですよね。この日は日本で初めて電灯がともされた日として電気記念日に制定されました。
帰国後も研究を続け功績を上げたエアトン
エアトンは自身も現役の研究者であり、工部大学校の同僚ペリー(数学担当)と組んで、日本にいる間も多くの論文を発表し続けました。寝る間も惜しんで熱心に研究する姿を見て学生たちもそれに従いました。
電磁気学の祖とされるイギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェルは、優秀なエアトンが日本に渡ったことを知り「電気学界の重心は日本に近づけり」と言ったそうですが、エアトンは在任期間を終えてイギリスに帰国したあともペリーと共同で様々な研究を続けました。
エアトンの終生の研究テーマは電気計測です。帰国後、エアトンはペリーと共に電流計を発明しました。また世界で最初の電動三輪車も共同開発し、これを電気自動車ととらえるならばフランスに次いで世界で2番目(フランスよりもわずか数か月遅れ)の電気自動車ということになります。
エアトンはその後もいくつかの大学教授を歴任しましたが、学生たちには常に「問題を調査した最初の人であるかのように」すべての実験を実行するように教え、熱意や追及が足りないときは容赦なく厳しく批判しました。
エアトンは日本にいるときも、研究に没頭しすぎて近隣の火事に気が付かない、電車に乗り遅れると帰ってまたすぐ研究を続ける、服装や礼儀を気にせず人付き合いにも無頓着だったなど、多少天才肌の奇人的な一面もあったようですが、指導者としては秀逸な手腕を持っていたようで、イギリスに帰ってからもエアトンの門下生からは優秀な人材が多く輩出したとのことです。
(ミカドONLINE編集部)
参考/参照記事 William Edward Ayrton – Graces Guide William Edward Ayrton , F.R.S. F.R.S. | Ray-Jones Family Dictionary of National Biography, 1912 supplement/Ayrton, William Edward – Wikisource, the free online library 工学寮電信科から生まれた日本の電気 | ENGINEERING POWER 東京大学工学部ガイド[エンジニアリングパワー] – 東京大学工学部 – Ayrton & Perry 1881 | History | Prestige Electric Car Ayrton and Perry ammeters, late 19th century. at Science and Society Picture Library エアトンとその周辺(PDF) William Edward Ayrton – ETHW The Ayrton and Perry Electric Tricycle of 1881 – News about Energy Storage, Batteries, Climate Change and the Environment 明治期の電気工学機器について MEIJI TAISHO 1868-1926: Showcase – ウィリアム E. エアトン 肖像写真 Toshiba Clip | 草創期から現在を探る! 電気にまつわる5つのトリビア など