電気と技術の知られざる偉人たち(09)~GSユアサの「GS」は常識を覆し国産にこだわった日本のエジソン島津源蔵のイニシャル~

    二代目源蔵が作成したウィムズハースト誘導起電機

    二代目 島津源蔵 年表
    1869年(明治2年) 京都市で初代島津源蔵の長男・梅治郎として誕生
    1875年(明治8年) 父が島津製作所を創業/6歳
    1884年(明治17年) ウィムズハースト式誘導起電機を作製/15歳前後
    1894年(明治27年) 父の急死により2代目源蔵を襲名して事業を継承/26歳
    1896年(明治29年) 国内初のX線写真撮影に成功/27歳前後
    1897年(明治30年) 教育用X線装置を商品化、京都帝国大学の注文で鉛蓄電池を作成/28歳前後
    1909年(明治42年) 初の国産医療用X線装置を作成/40歳前後
    1917年(大正6年) 日本電池株式会社を設立/48歳前後
    1920年(大正9年) 易反応性鉛粉製造法を発明/51歳前後
    1929年(昭和4年) 大日本塗料株式会社が分離独立/60歳前後
    1930年(昭和5年) 日本の十大発明家の一人として宮中晩さん会に招待/61歳前後
    1937年(昭和12年) 日本輸送機株式会社(現・三菱ロジスネクスト)を設立/68歳前後
    1939年(昭和14年) 島津製作所の社長を退き会長に/70歳前後
    1945年(昭和20年) 会長を退く/76歳前後
    1951年(昭和26年) 逝去82歳

    父親譲りの才能を幼いころから発揮

    (画像:Wikipedia)

    生涯に国内外12カ国にわたって178件の発明考案をした二代目島津源蔵は、日本のエジソンと呼ばれる日本電池(現・GSユアサコーポレーション)の創業者であり、島津製作所の二代目社長でもあります。

    初代島津源蔵の長男・梅治郎として京都市に生まれた二代目島津源蔵は、家業(島津製作所)が忙しくなってきたため小学校を2年でやめています(当時の平民はそれが普通だったようです)。

    けれど発明の才能があった父親の資質を受け継ぎ、幼いころから理化学の素質と優れた観察眼を持つ人物でした。

    そんな二代目島津源蔵の知識の基盤となったのは、父が源蔵のために京都府から借りてきた物理学の教科書です。

    それはアドルフ・ガノット(ガノー)というフランス人が著した世界的に知られる当時の物理学書で、全文が外国語で書かれており、主に大学で使われるような書物でした。

    けれど源蔵は想像力を働かせながら、図の通りに実物を作ってみることで仕組みを理解し、2年がかりでそのほとんどを理解してしまいます。

    もちろん外国語は読めません。けれど源蔵は挿絵と図解だけを参考に、ネジ、歯車、軸、ハンドルなど教科書通りの機械を作っては父を喜ばせ、周囲の皆を驚かせます。この経験が源蔵の「実験と観察の生涯」と呼ばれた人生を強く支えました。

    やがて源蔵は15歳の時にたった一枚の挿絵からウィムズハースト式誘導起電機を製作して翌年の京都勧業博覧会に出品し、文部大臣の森有礼から激励を受けています。

    参考にしたのは、親交のあった京都府京都中學校の今立吐酔(いまだてとすい)校長(教育学者、のちに外交官)に見せられた「デシャネルの教科書」と呼ばれる物理書であったようです。

    今立吐酔の回想によれば「物理化学の機器等で東京でもできないものやできても大変費用のかかるものは、島津源蔵(初代)に教科書を見せて補足説明をすると間に合うようにつくってくれた」と書かれているので、親子ともどもモノづくりの才能は非常に高かったようです。

    日露戦争に使われた源蔵の蓄電池

    (画像:島津製作所
    (画像:島津製作所

    島津製作所の創業者で初代社長だった父の急逝に伴い、26歳で二代目島津源蔵を襲名して会社を継いだ二代目島津源蔵は、ドイツでレントゲン博士がX線を発見した10ヶ月後には早くもX線写真の自力撮影に成功し、1909年には国産初の医療用X線装置を開発して日本の医療用X線装置のパイオニアとなりました。

    実は時期は多少前後するものの、他にも日本国内でX線の成功した研究者は何人かいたのです。けれど他はすべて「研究」だけで終わってしまい実用化を目指したのは源蔵だけでした。

    そして二代目源蔵の歴史を語る上で欠かすことのできない蓄電池の事業化もこの頃でした。

    二代目源蔵が初めて蓄電池をつくったのは、同志社大学のゲーンス教授から譲り受けた科学洋書がきっかけと言われていますが、1897年に京都帝国大学理工科大学から注文を受けたことを機に源蔵は本格的に研究開発に乗り出しました。

    明治の中ごろから、日本の産業は拡大期に入り、機械も手動から電動の時代に移っていましたが、発電設備はまだ充分ではなく、無線通信、鉄道、劇場、映画館など蓄電池の需要がすごい勢いで伸びていました。けれど国内で使われている産業用蓄電池はすべて外国製でした。

    父の遺志を受け継いで科学技術の発展と国産化にエネルギーを注いでいた二代目源蔵は、これを機に奮起して10アンペアの容量を持つクロライド式鉛蓄電池を完成させ、自社の自家予備電源として設置するまでになりました。

    そこに目を付けたのが海軍でした。

    日露戦争の少し前に京都大学教授の難波正と海軍技術部の木村駿吉が源蔵の工場を訪れます。用件は工場が所有する蓄電池の拝借です。無線機を動かすために必要な蓄電池が輸入品だけでは間に合わなくなってしまったからです。

    源蔵は源蔵は工場用の蓄電池をすべてはずし、50個以上の蓄電池を海軍に提供したそうです。このときの蓄電池が日露戦争で日本の勝利を決定づけた日本海海戦で、攻撃の開始を告げる「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の打電に使われたことは有名です。

    外国人にできて日本人にできないことはない

    亜酸化鉛製造機(画像:島津製作所

    1917年(大正6年)、源蔵は蓄電池製作部門を、島津製作所から切り離し、日本電池という別会社(現・ジーエス・ユアサコーポレーション)を立ち上げます。

    この頃、海外ではすでに第一世界大戦が始まっており、これまで海軍省や鉄道院が使用してい たドイツ製蓄電池の輸入が途絶えてしまいました。

    この事態を受けて、三菱、大倉、地元財界が新町今出川 (現・同志社大学新町校舎の地)の 島津製作所蓄電池工場を独立させたともいわれていますが、今後の需要が見込まれる容量の大きい国産大型蓄電池をつくるためには大きな障壁がありました。

    それは細かい鉛の粉です。蓄電池の最も重要な材料は鉛粉ですが、当時の日本には鉛を粉砕して粉にする技術はなかったのです。

    新会社の命運は良質の鉛粉が作れるかどうかにかかっており、製作技術の譲渡に250万フラン(200万円)を要求してきた当時の先端企業・ドイツのチュードル社から技術を買うか、それとも新たな技術を自社開発するか。

    このときの役員会は全員が技術の金銭購入に傾いていましたが、源蔵一人だけが国産技術開発を主張し重役たちを押し切りました。

    そして偶然の発見から着想を得てついに易反応性鉛粉製造法を発明したのです。この発明は海外でも高い評価を得てメラー、グメリン、ウルマンなど権威ある化学書にも記載されました。

    この亜酸化鉛粉の使用により、源蔵の蓄電池は世界第1級のものとなったのです。

    日本電池は島津源蔵のイニシャルGSを自社製の蓄電池の商標とし、GSはやがて全製品の統一ブランドとして使われるようになりました。

    島津源蔵親子は初代も二代目も、海外から次々と日本に入ってくる専門書や理化学機器を目にして「外国人にできて日本人にできないことはない」と発奮した人物でした。

    また二代目源蔵は「化学は(世の中に)応用されなければ意味がない」という信念の持ち主で、前述したX線のエピソードにはそれがよく表れていますよね。

    才能にあふれ多くの大事業を成し遂げた二代目島津源蔵は、長年苦楽をともにした妻・つるに看取られながら82歳で亡くなりましたが、晩年病床にあっても2件の発明をするなど最後まで科学する心を失うことはなかったようです。「技術は外国から買う」という常識、「外国製が一流品」という常識をことごとく覆した人生でした。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 島津親子二代記(電子ブック) 「MADE IN JAPANの夢」 島津源蔵とウィムズハースト誘導起電機(PDF) 京都と島津源蔵父子(PDF) 経済人列伝、島津源蔵 電池の歴史 一その2一実用化と定着の時代(PDF) など