電気と技術の知られざる偉人たち(04)~国産初の白熱電球をつくった藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”~

    田中久重と藤岡市助に関する展示物が並ぶ東芝未来科学館の「創業者の部屋」(画像:東芝未来科学館)
    藤岡市助 年表
    1857年(安政4年) 4月8日(旧暦3月8日)周防国玖珂郡岩国町で誕生
    1875年(明治8年) 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。合格者は6名/18歳前後
    1878年(明治11年)アーク灯点灯実験に参加/21歳前後
    1881年(明治14年)名称が変わった工部大学校を首席で卒業/24歳前後
    この頃芝浦製作所創業者の田中久重に会う
    1882年(明治15年)銀座大倉前でアーク灯を点灯する/25歳前後
    1884年(明治17年)工部大学校教授に就任/27歳前後
    ニューヨークでエジソンに会う
    1889年(明治22年)白熱電球の試作品に成功/32歳前後
    1890年(明治23年)三吉正一と「白熱舎」を立ち上げる/33歳前後
    電車を設計して日本で初めて運転
    浅草凌雲閣に日本初の電動エレベーターをつくる
    1891年(明治24年) 工学博士を授与/34歳前後
    1898年(明治31年)三吉から社長を引き継ぐ/41歳前後
    名前を東京電気に改める
    1902年(明治35年)社長を辞任/45歳前後
    1907年(明治40年)東京から大阪に高速鉄道を走らせる計画を立てるが許可されず/50歳前後
    1910年(明治43年)社長に復帰/53歳前後
    1918年(大正7年)3月5日死去。(享年60歳)

    秀才だった藤岡市助

    私が小さい頃、NHKの少年ドラマシリーズで「からくり儀右衛門」という子供向けの連続ドラマがありました。それが幕末の発明家で芝浦製作所(現:東芝の重電部門)の創業者「田中久重」の話であるとわかったのは、割と最近のことです。

    実は東芝には創業者がもう一人います。それが今回ご紹介する藤岡市助です。

    藤岡市助は前回取り上げた中野初子(はつね)の工部大学校の同級生です。工部大学校の教官でイギリス人のエアトンが担当した、日本初のアーク灯点灯実験に中野らと共に助手として参加し、在学中に電気の知識を磨きました。

    工部大学校は西洋の進んだ科学技術を日本に取り入れるために工部省が造った学校で、教官は全員政府が招聘した欧米人です。

    国産初の白熱電球をつくった藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”_藤岡市助
    若い頃の藤岡市助(画像:EMIRA

    岩国藩士の家に生まれた藤岡は、最初藩校で学んだあと、藩主が私財を投じて外国人を招いた岩国英国語学所移りそこで頭角を現しました。

    岩国英国語学所は全ての学問を英書で学ぶ学校なので、今でいう最先端の英才教育のようなものですが、藤岡はそこで首席を占め、英国人教師に代わって教壇に立つこともあったそうです。工学部大学校にも藩主の奨学金で入学していますから、若い頃からかなりの秀才であったようです。

    明治初期のこの当時、照明としての電気はまだなく、電気と言えばツー・トン・トンの電信技術を指すものでした。工部大学校にも電気科はなく、中野や藤岡が在籍したのは通信科でしたが、優秀な研究者でもあったエアトンは学生達に電気の最新技術も教えたので、藤岡は次第に電気に惹かれるようになりました。

    やがて藤岡は工部大学校を首席で卒業し、中野と共に母校の教官になりました。藤岡は自ら電気科を創設して学生の指導を担当しましたが、日本の夜を電気の明かりで照らしたいという思いを抱き研究もずっと続けていました。

    電気の価値を多くの人に伝えたい

    銀座のアーク等(画像:大成建設所有)

    1882(明治15)年11月1日午後7時30分。銀座2丁目の大倉組事務所前で、日本で初めてアーク灯(弧光灯)と呼ばれる電灯の公衆公開が行われました。真っ暗な夜しか知らない人々は眩しすぎる電気の光に大いに驚愕したことでしょう。

    このイベントを行ったのは設立前の東京電燈株式会社です。一般市民に電灯照明への理解を促し、そのメリットを宣伝するためのデモンストレーションでした。この事業の必要性にいち早く気付き、電燈会社の実現に尽力したのが工部大学校を卒業したばかりの25歳の藤岡市助でした。そして計画を立案し、財政界や政治家を説いて回ったそうです。

    藤岡は母校で学生を指導する一方で、電気技術・エネルギーの普及に努めましたが、そのきっかけとなったのが、電信機関係の製作所・田中製造所を経営していた2代目・田中久重との出会いでした。

    田中久重は藤岡が工部大学校の教授補を命じられた1881年に藤岡の元をが訪ねてきて、アーク灯への熱い思いを語りました。その熱意に藤岡は大いに共感し、電気の普及を共に誓い合ったとのこと。

    余談ですが、藤岡が手掛けた銀座のアーク等について「2000個設置された」と書いてあるサイトが多いのですが、当時の技術や環境から考えても2000個は無理なのではないかと思われます。たぶん「2000個設置」は間違いで、正しくはこちらに書いてあるように「2000燭光(ローソク2000本分の明るさ)」が正解なのではないでしょうか。上の錦絵に描かれているアーク灯も1本ですしね。

    エジソンの言葉に感銘を受け国産初の白熱電灯を製作

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    (画像:東芝

    1884(明治17)年、藤岡は政府使節としてアメリカへ派遣されました。そしてフィラデルフィア万国電気博覧会で電気を用いた最先端の技術を視察した後、ニュージャージーにあったエジソンのランプ工場を訪れて白熱電灯を見学し、その精巧さに驚きました。

    藤岡はエジソン本人にも会い、自分の思いを告げたところエジソンから以下のように言われて感銘を受けたそうです。

    「日本を電気国にするのは大変よいことだ。だが一つだけ忠告しておこう。どんなに電力が豊 富でも、電気器具を輸入するようでは国が滅びる。まず電気器具の製造から手がけ,日本を自給自足の国にしなさい」

    帰国した藤岡はこれを機に白熱電灯の国産化に熱意を燃やし、国や経済界へも電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていくようになりました。

    帰国した2年後には藤岡の提言により「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が開業、藤岡ここでついに大学校を辞め東京電燈の技師長に転身しました。そして1889年(明治22年)に初めて国産白熱電球の試作品に成功したのです。

    しかし藤岡はそれだけでは満足しませんでした。電球製造の独立経営を目指し、岩国の藩校時代からの親友 三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、本格的な電球製造に着手します。この会社がやがて田中久重の流れをくむ「芝浦製作所」と合併して昭和14年に総合電気メーカー「東京芝浦電気」が誕生したことはご存じの方も多いと思います。

    電気事業に大きな貢献

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    藤岡市助(画像:Wikipedia)

    白熱電球の製造は、当時の世界の最先端技術だったため、その製造は、困難を極めたものでした。

    英国から電球製造機械を輸入したものの、組み立ての説明書もなく、製造に用いる材料や薬品ですら国内では手に入らないという状況でありながら、藤岡は手探りで製造を続けて日夜苦労を重ねた結果、品質も徐々に向上して6年後には日産280~290個まで生産規模を拡大させました。

    やがて藤岡はその手腕を買われて多くの会社に関わり、技術や人をサポートしました。その代表的な会社として、今の東京電力(東京電燈が前身)、東芝、IHI、明電舎、東京都交通局、京急、小田急などが挙げられます。このような藤岡の努力によって、大正時代の初めには各家庭に電気が灯り、多くの都市の街中を電車が走る文明開化の国に日本がなったのです。

    藤岡は発明家としての技術だけでなく、政財界を巻き込む営業力や、電気の良さをアピールするプレゼン力にも長けていました。目に見えない電気の魅力を伝えるために、明治23年に上野で開催された第3回内国勧業博覧会で上野公園内で電車を走らせて(日本初の電車の運転)世間をあっと驚かせましたし、日本で最初の高層ビルとして注目をあびた浅草凌雲閣(12階建)では屋上にアーク灯をつけ夜間に辺りを照らし、10人乗りの電動エレベータを動かして(日本初のエレベーター)人々を喜ばせました。

    しかしその一方で発電機の交流直流論争においては、東京電燈の技師長としてエジソンの直流発電を支持するなど、現在からみれば(現在の電力は交流発電)判断の誤りもありましたが、これにはすでに計画を出して財界から資本を引き出していたため、後戻りできない事情もあったようです。

    藤岡は中国地方初の電気鉄道、岩国電気軌道株式会社を設立するなど郷土の発展にも大きく貢献し、産業界に数多くの足跡を残し60歳で亡くなりました。岩国では故郷の偉人として藤岡に関する様々な資料の展示があり、イベントなどもよく開催されているようです。

    (ミカドONLINE編集部)


    参考/参照記事 藤岡市助と電気鉄道 日本で初めて電球を作った偉人・藤岡市助【前編】 藤岡市助博士のことば(立志の碑) 山口県の先人たち 藤岡市助と岩国学校教育資料館 藤岡市助ものがたり 日本初の白熱電球 国産電気メーカーの誕生(田中久重・藤岡市助) など